『同朋』10号対談を特別公開します

掲載日:2023/10/31 16:14 カテゴリー:メイン

戦争の忘却は、すさまじい恐怖。


近作で戦争の恐ろしさ、痛みを描いてきた映画監督の塚本晋也さん、 そして、真宗大谷派僧侶の平野喜之さんのお二人に 「恐怖」をテーマに語り合っていただきました。



念願の企画だった『野火』


平野 私は石川県のお寺の住職なのですが、元々は生まれも育ちも京都で、親は西陣織の着物の帯を織っていました。たまたま大学生の時に出会いがあって僧侶になり、現在はカルト問題、また鶴彬 つるあきらという反戦川柳作家を顕彰する活動にも取り組んでいます。塚本さんが映画を撮ろうと思われたのは、いつ頃ですか?
塚本 中学生の頃、父が持っていた8ミリカメラで撮り始めました。その時の延長で、いまだに自主映画を作っています。
平野 近作にはフィリピンでの戦争体験が描かれた、大岡昇平原作の『野火』(2015年)があります。長年映画化を切望した作品だそうですね。
塚本 高校生の頃に原作を読み、大岡さんの文章がそのまま映像として目に焼きつくような印象を受けました。当時すでに8ミリで映画を作り始めていたので、いつか映画にしたいと思ったんです。具体的には『鉄男』(1989年)という映画を作った後から準備を始めました。2000年代にはフィリピンで亡くなられた方の遺骨収集にご一緒したり、2010年に自分が50歳になった頃から、どうしても今作らなければ、と。このタイミングを逃すと、この映画が必要とされず、無視されるような時代が来るような気がして、相変わらずの自主映画で、今まで一番お金がないところから無理やり作ったのが『野火』です。


スカッとしない暴力描写


塚本 戦争体験のある方は、その恐ろしさに実感があって戦争をしてはならないという気持ちが強いのですが、そういう方がどんどん亡くなるにつれて、日本が戦争に近づいていると感じたんです。痛みの実感がないまま、「しょうがない」という機運になるのはすごく怖い。実際フィリピンに兵隊として行った方々からお話を聞いて、その感覚を『野火』に込めました。
平野 戦争映画には「悪いやつをやっつけろ」的なヒロイズムや「戦時下でもみんな頑張っていた」といったノスタルジーを感じることもありますが、『野火』では飢餓から人肉を食べてしまうといった極限の状況が描かれていますね。
塚本 戦場では、その瞬間をどう生きるかということしかないと思います。原作はそこをすごく正直に描いていて、だからこそ戦争の恐怖が伝わってきます。
平野 映画の暴力描写には観客を「スカッとさせる」ものもありますが、塚本さんの作品はそうではありません。『野火』の次の作品『斬、』(2018年)は時代劇ですが、主人公の侍がなかなか仇討ちにいかず、モタモタする場面があります。人を斬るというのは殺すことなのに、観ていて「早くやってしまえ!」と期待を抱く自分がいてハッとしたんですよ。
塚本 ありがとうございます。その通りで『斬、』はムズムズする映画です。『野火』は「これでもか!」と戦争の暴力を描いたので、観た人はゲンナリするんですが、ある意味分かりやすい。例えば「いつまでも憲法9条なんか守ってないで、少し脅しをかけないとナメられるんじゃない?」と言う人もいると思うんですよ。『斬、』には、泰平の世を守るため、どんどん人を殺せばいいと考える侍も出てきます。主人公はそうではなく、現代の僕たちに通じる心があり、実際に人を殺すとなると、なかなか斬れないという葛藤がある。それは今の時代の感情なのかなという気がします。
『斬、』の結末は非常に暗くて、それまで人を殺せなかった主人公が、周囲に圧されたりして遂に刀を振るいます。もし続編があるなら、完全な人斬りとして恐れられている主人公を描くかもしれません。そんな予感があります。


痛みを見失ってしまう恐怖


平野 今のお話で思うのは、まず戦争が起こるかもしれないという恐怖がありますよね。あと、戦争になった時に元々感じていた痛みを見失うという恐怖もあると思うんです。暴力に魅了されて、痛みの感覚を忘れてしまう。そんなふうに痛みを見失わせるのは「慣れ」じゃないか、と思うんです。
戦時中に中国にいた医師の文章を読んだことがあって、一番怖かったのは、看護師の表情が変わったことだと言うんです。日本兵が中国人を殺害する時、はじめは看護師が泣き叫んだり、嘔吐したりということがあったそうなのですが、何度もそういう場にいるうちに慣れてしまって、殺される人が叫ぶのを見た看護師がニヤッと笑った、と。これは本当に痛ましいし、恐ろしい。塚本さんの作品は、人間が痛みの感覚を見失うという恐れを繰り返し描いていますね。
塚本 そういうことを特に意識し始めたのは、『野火』以降です。昔の自分の映画は、地獄とも言えるような恐怖の世界に飛び込んで、生きている実感を得るといった話が多かったかもしれません。でも、今は自分から飛び込んでいかなくても、世の中が恐怖に満たされている感じがあります。だから、「どうしたらここから逃れることができるんだろう」とか、恐怖に埋没していることの痛みや悲しみがどうしても出てしまう。あえて言うと、そんな感じかもしれないです。
あと、先ほどの看護師さんの話は、つい聞き入ってしまいました。戦争の恐ろしさは被害者になることもあるけれども、それ以上に加害者になることだと思うんです。何かで読んだのですが、中国人の捕虜を殺す時、最初の一突きは本当に恐ろしくて「嫌だ」という気持ちがあるのですが、同時に「腹の据わるような手応え」という感じらしくて。その感じに慣れると、人を殺すのが当たり前になるそうです。
一人だとなかなか加害者にはなれないらしいんですが、集団になって、相手は人間ではないなどと教えられると「それならば」と、なぜか思うらしい。本当にそう思っているのか、大義名分が与えられて本来の暴力性を発揮しているのか分かりませんが、そうなると平気で人間を殺戮してしまう。信じたくないですけど、どうも人間というのは、誰もがそうなってしまうみたいですね。
極限の状況においても美しい魂を描ければいいのですが、どうにも僕たちは恐ろしいものになってしまう、そういう絶望感があります。だから、次世代のことを考えると、とにかく戦争に近づかないように、人間のそういう面が出ないようにすることが大切じゃないかと思うんです。


孤独という恐怖に向き合う


平野 塚本さんの映画には、私たちがどのように恐怖に向き合うのかということも描かれています。他人の夢に入り込むという、特殊な力をもった探偵が主人公の『悪夢探偵』というシリーズを作られていますね。その二作目『悪夢探偵2』(2008年)には、幼い頃の主人公が母親に「世界は怖いものばかりなの?」とたずねる場面があります。主人公が「怖い」と言うのは、彼には他人の心が読める力もあって、人間が抱える、地獄とも言うべき闇を意図せずとも常日頃から感覚してしまうからです。私たちの宗派の宗祖、親鸞の先達に源信という高僧がいて、『往生要集』という書物を著しているのですが、そのなかに地獄の定義があり、それは互いに傷つけ合い、同伴者がいない孤独だというんですよ。
この映画の登場人物はそれぞれに孤独で、苦しんでいる。それでは、どうやって、この孤独の恐怖を超えていけるのかというと、人間の孤独は究極的には癒されないかもしれないけれども、共にそれを見つめ合う、向き合ってくれる相手がいる時には希望があるんじゃないか。そんなことを塚本さんは見出されていると感じたのですが、いかがでしょうか?
塚本 心のどこかではそういうことを希望して映画を作っていると思うのですが、自分では言語化していなかったので、ありがたいです。『悪夢探偵2』は、自分の母が病気になって、介護をしていた頃に作った映画です。母が孤独を感じないように、できるだけ近くにいようとした時期で、そういう実感がありました。若い時は「自分は飛行機が落ちても死なないぞ!」と思っていましたが、母の最後に寄り添うなかで、自分がかつて感じていた死の恐怖が少しゆるくなってきました。自分がいなくても、自分の後に続いてくれる人がたくさんいるように感じたりして、何となく安堵感があるんです。だから、今はむしろ自分より若い人の生命が突然断たれるようなことに恐怖を感じます。


新作に込めた「祈り」


平野 少し話は変わりますが、私がカルト問題に取り組むようになったのは、麻原彰晃の側近の一人で井上嘉浩よしひろという方がいたからです。彼は私の高校の後輩で、その縁から彼が罪を償うことを支援していたんです。死刑が執行され、彼は亡くなりましたが、カルト問題はまだ終わっていない。だから、これ以上被害が出ないように活動を続けています。
宗教の歴史に目を向けると、現実の暗部を抉り出して真実を見せようとする場合もあれば、宗教的な言葉で現実をいたずらに飾りたてる場合もある。例えば、「人間の在り方は地獄そのものではないか」と、私たちの闇を言い当てることもあれば、戦争を「聖戦」などと言い換えて現実を覆い隠すこともある。これは宗教だけじゃなくて、映画にも真実に迫るものと、真実を覆い隠すものがあると思います。
はじめに名前を出した鶴彬という作家は1909年に石川県に生まれ、生家は私がいるお寺の近くなんです。反戦の川柳を発表していたために検挙され、獄中で赤痢にかかり、1938年に29歳で亡くなりますが、晩年に「屍のゐないニュース映画で勇ましい」という川柳を残しています。当時のニュース映画には華々しく戦果を報じるものが多かったのでしょう。でも、そこには「屍」とされた人間の痛みはない。
人生の最後に詠んだと言われているのは「胎内の動き知るころ骨がつき」。おそらくお父さんが戦争に召集され、お母さんが胎内の子の動きを知る頃、骨になって戦地から帰ってきた、そういう川柳です。こういう悲哀を詠み、国家の罪を抉り出している。鶴彬自身は「仏像をつまんで見ると軽かった」といった川柳も残しており、宗教に対しては非常に批判的でした。でも、私は彼の川柳には、言葉を駆使して真実を言い当てようとする、祈りのようなものを感じます。
塚本さんは俳優としても活動されていて、遠藤周作原作の映画『沈黙―サイレンス―』(2016年)ではモキチという敬虔なキリスト者を演じていますね。以前のインタビューで「祈りのような気持ち」で演じたと語られているのを読んだのですが、どんな気持ちでしたか?
塚本 自分は宗教のことはよく分からないのですが、尊敬するマーティン・スコセッシさんが『沈黙』を監督するということで、その現場に自分がいることを考えた時、普段の自分とは違うレベルで演じないといけないと思いました。少し変かもしれませんが、ぱっと浮かんだのは、くるぶしのところが干からびているようなモキチだったんです。弾圧されて殉教する役なので、そういう身体で現場に臨まなきゃな、と。
キリスト教の信仰は実感としては分からないので、何かそれに置き換えられるものが必要でした。その時、『野火』を作っていた時の気持ちを通して、モキチになれるんじゃないかと気づきました。それは次世代も、さらにその次の世代も恐ろしい戦争に行かずにすむように、という祈りのような気持ちです。その時の気持ちは、今の自分にとっても大事で、新作の『ほかげ』(2023年)は戦後の闇市が舞台の映画なんですけど、一言で言えば「祈りの映画」。いつまでも戦後でありますように、という祈りを込めているのが、今度の映画です。
平野 それは楽しみです。ぜひ拝見したいと思います。



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