『同朋』12月号対談を特別公開します

掲載日:2023/12/25 17:49 カテゴリー:メイン

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共に苦しみを見つめ合い、差別に抵抗するフェミニズム。


女性であるというだけでなぜ、こんなに生きづらいのか。
あらゆる差別のない社会をめざして、フェミニズムを学んでこられた飯野由里子さんと、
真宗大谷派僧侶の谷口愛沙さんに語り合っていただきました。





フェミニズムとの出会い

谷口 私は数年前、大学院生の時に僧侶になったのですが、大学も宗派も男性が多い世界で生きづらいな、と。それでフェミニズムの本を読むようになり、最近はっきりしたのは「自分のなかに怒りがある」ということでした。この怒りは私個人を含む社会など、さまざまな因縁によって生起した苦しみです。まず、この苦しみがあるという事実にまっすぐ向き合わないと、苦しみの内実を問い尋ねることを大事にしてきた仏教にも向き合えない。だから、自分のなかに苦しみをあらためて発見したことで、仏教にも、フェミニズムにも出会いなおせたように思えたんです。
飯野さんはフェミニズムとどんな出会いがあったんですか?
飯野 私の出会いも大学生の時です。高校卒業後、親から離れたいという理由もあって、アメリカに留学しました。私が病弱だったので、過保護なところがあり、国内だと追いかけてくるかなと思って、アイダホ州の大学に留学しました。
アイダホはかなり保守的な州で、大学があるのは、軍隊みたいなかっこうをした白人至上主義者が銃を携帯して歩いているような町でした。人種差別や女性差別に加え、当然のように性的マイノリティへの差別もありました。大学にはそれに批判的な先生もいましたが、町全体では少数派でした。
留学して一年経った時、州で反同性愛法を制定するための投票が実施されることになりました。「人権の観点から考えておかしい」と思っていたら、友人たちが反対運動をすると言うので、私も参加しました。
私たちは草の根で反対運動をしていましたが、とにかく劣勢です。すると、ニューヨークからレズビアン・アベンジャーズという、レズビアンのフェミニストのグループが「反対運動を手伝う」と引っ越してきたんです。それまで私たちは「助けてほしい」といった感じで運動していたのですが、彼女たちは抗議のスタイルも全然違って「私たちは健全で善良な市民だから助けて」とは言わないんです。ユーモアや遊び心があって、みんなで歌いながらデモをして、マーチングバンドでタッタカターみたいな(笑)。それは「私たちは差別されても萎縮しない。差別とは闘っていくしかない」という意思表示でした。一緒にいると元気になれました。
同時に、彼女たちにはすごくシリアスなところもありました。運動を始める一年前、すぐ近くのオレゴン州で、同性愛者が住んでいたアパートが差別主義者に放火され、二人が亡くなった事件がありました。性的マイノリティにとっては「自分たちも殺されるかもしれない。とにかく目立たずに生きなきゃ」という状況でしたが、レズビアン・アベンジャーズはその事件の後、「火を食べる」というアクションを始めます。トーチに火をつけて、それをのみ込む仕草をするのですが、これは放火犯が同性愛者を殺した火。火は私たちを破壊しない。私たちはこの火を自分の内に取り込んで自分たち自身の力に変えていくという意思表示です。
州民投票は僅差で反対派が勝つことができました。運動のなかで無力感も経験しましたが、アイダホでの経験が私の原点、社会運動の出発点で、フェミニズムとの出会いでした。


「インターセクショナリティ」って?

谷口 「フェミニズムは一人一派」と聞くくらい、いろんなフェミニズムがあるそうですね。飯野さんが運営委員を務める一般社団法人「ふぇみ・ゼミ」では、インターセクショナル・フェミニズム、つまり、インターセクショナリティ(交差性)という言葉を重視するフェミニズムを大事にしています。それはどんなフェミニズムですか?
飯野 私たちの社会には女性差別のみならず、障害者差別、人種差別、同性愛差別など、さまざまな差別があります。これらは複雑に交差し連動しながら、一人ひとりに作用します。インターセクショナリティとは、こうした差別のメカニズムを明らかにする、ひとつの視点です。たとえば、障害のある女性とそうでない女性では経験が違いますよね。「私も女性だから、あなたの経験はすべてわかります」とは言えない。だから、一人ひとりの経験を丁寧に扱うことが大事になります。インターセクショナル・フェミニズムが、黒人女性など、マイノリティの内に置かれた女性たちに目を向けるのは、そういう理由からです。マイノリティ女性から、つまり、主流ではない位置から社会を見ると、より複雑で厄介な差別の仕組みが見えてきます。
フェミニズムといえば、メディアはすぐ上野千鶴子さん(社会学者)に話を聞きに行きますが、率直に言って聞きに行く先を間違えています。なぜ、マイノリティ女性の話を聞かないのでしょうか。権威のある人ではなく、自分のとなりにいる人から学べることは多いはずです。マイノリティ女性は、この社会のゆがみを日々の経験のなかで感じています。だから、彼女たちから学ぶという姿勢を一人でも多くの人がもち、社会のゆがみを知ることができれば、どこをどう変えるべきか、わかるはずです。
私が最初に出会ったフェミニストは、異性愛者ではないという意味でマジョリティ女性ではなく、人種差別が激しい地域にわざわざ来て一緒に闘ってくれる、そんな女性たちでした。だから、いま振り返ってみると、私が出会ったのはインターセクショナル・フェミニズムのひとつだったなと思います。


フェミニズムは過激でも怖くもない

谷口 私の場合、いま感じている怒りをどうしたら昇華できるのかな、と思いながら、お話を聞きました。「絶対におかしい」と感じていても、なかなか声にできないし、ましてや闘うなんて厳しいな、と。
傷ついたり、怒りを感じている女性がそれを声に出して、社会を変えていくのがフェミニズムだと思うのですが、そのことを曲解して「一部の強い女性のためのものでしょ?」と遠ざけてしまう人は男女問わず多く、フェミニズムという言葉自体を避ける雰囲気もありますよね。
飯野 反対運動をしていた当時は、ユーモアとか遊び心を抜きに生きのびることが不可能な状況でした。殺されるかもしれない深刻な差別のなかでこそ、ユーモアや遊び心は大事です。
闘うことの難しさはよくわかります。日本社会は声を上げた人を叩きますから。だから、社会を変えたいなら、私たちは声を上げた人をヒーローにしていかないといけません。でも、私たちは長い闘いのなかにいるので、ひとりのヒーローに社会を変えてもらおうと期待してはダメです。それと強調しておきたいのは、私は闘いを強要しません。「あなたは差別されている。だから闘いなさい」とは言わない。ただし、闘おうと決めた人、決意があって声を上げた人は全力でサポートします。
先ほど、フェミニズムが「そんなに強くなれない」多くの女性たちを遠ざけているのでは? という懸念にふれてくれましたね。私もそう考えた時期があります。私が出会ったフェミニストたちも、すごく強い女性に見えました。私はあんなふうにはなれない、むしろ怖い、と思っていました。
でも今は「フェミニストが怖い」と思う女性がいるのは、いまだに女性差別が激しく、家父長制が強固な、この社会に問題があるからだと考えています。このような社会では、女性みずからが自分を弱いと感じてくれたほうが都合がよいのです。
結局のところ、フェミニズムは過激だとか、フェミニストは強くて怖いとかいうのは、家父長制が女性を支配し、その支配を維持するためのプロパガンダのひとつなのだと思います。つまり、「あんなふうになったら不幸になるよ。だから弱いままでいなさい。おとなしくしていたら、守ってあげるから。だけど、もし刃向かったら、とことん叩いて、この社会にいられなくしてやる」という脅しです。私にはこうした圧力のほうが断然、怖いです。だから、怒りを共有して、一緒に闘ってくれる仲間が必要だと感じています。
谷口 「これっておかしいよね?」と誰かと共有できるのは、すごく力になりますね。私が「おかしい」と口にしたことで、もしかしたら私のとなりにいる人が「そうだよね? やっぱりおかしいよね」と言えることもあると思うんです。それはとても私的で小さなことですけど、闘いの方法はきっとさまざまですね。


「男もつらい」に応答する

谷口 ところで、男性の友人と話していて、女性の生きづらさが話題になったりすると「なんで男が批判されなきゃいけないんだよ。男もつらいんだよ」などと言われたりします。「たぶん気づいてないけど、男性ってだけで生きやすいことがあんねんで」と内心では思うのですが、話が全然かみ合わないんですよ。飯野さんはこれにどう答えますか?
飯野 男性もつらいのは事実だと思います。むしろ我慢を重ねて、しんどくなるくらいなら「男だってつらい」と言ったほうがいい。だってこんな社会ですもん、みんなつらいよねって。でも、男も女も同じようにつらいのか、不利益があるのかというと、そこには大きな違いがあると思います。男もつらいからといって、社会的な特権は相殺されません。しかも残念なことに私たちが「自分の特権に気づきなさい」と言ってもあまり効果はない。こればかりは自分で気づかないと意味がないんです。
大学の授業で自分の特権をテーマにグループワークをした際、ある学生から次のような経験を聞きました。小学生の遠足の時「250円のお菓子を持って来てください」というお知らせが先生からありました。すると当日、外国にもルーツのある同級生が250円の小銭を持ってきたそうです。その子の親はほとんど日本語がわからなかったんですね。この学生は当時は気づかなかったけれど授業で特権について学ぶことで、その時の経験を「自分の特権」として捉えなおしたわけです。自分が履いている、いわば「高い下駄」が見えたのですね。その気づきがどれくらい持続するのか、どんな行動の変化に結びつくのかはわかりませんが、こういった経験はとても大事です。「特権」や「高い下駄」と言うとおどろく方もいますが、日常の些細なことが実はとても大きい違いを生じさせているのです。
最近、特に若い世代から「男らしさってしんどい」と聞きます。それはリアルな感覚だと思います。家父長制のなかで、自由に生きることができる人はいません。だから、当然しんどいでしょう。その時に「フェミニズムの主張って、自分の男性としての生きづらさの問題でもあったのか」と気づく人もいます。その他に、娘が生まれて「子どものために女性が生きづらい日本社会を何とかしなきゃ」と気づく人もいますね。それについては「あなたの娘だけの問題じゃないんだけどね」とは思いますが(笑)。


私たちには仲間が必要

谷口 男性とも気づきを共有したいな、とは思うんです。けれども、「女性だからってあんなこと言われて、しんどい」とある男性に相談したら、「そんなのほっとけ」と。でも、女性差別を放置していると、男性中心の社会に批判が向かうどころか、差別を受けている怒りのために女性同士で傷つけ合うことも起こってしまいます。すると、今度は「女性って怖いね」などとからかわれる。私が関わってきた女性たちは多かれ少なかれ、みんな傷や怒りを抱えていました。飯野さんは、自分の傷や怒りにはどんなふうに向き合っておられますか?
飯野 「ほっとけ」と言う人は、問題を個人に矮小化していますね。だから処世術みたいなことを言いがちですが、問題は社会の仕組みにあります。個人の問題なら他人事にできて楽ですが、社会の問題なので私たち全員にとって自分事なはずです。
私自身、たくさん傷ついて、怒りを抱えて生きてきたし、いまもそうです。傷も大事な自分の経験ですが、その傷や怒りをどうしていくのかも大切です。怒りをとなりにいる女性や自分より弱い社会的位置に置かれているマイノリティにぶつけていいのか。近年のトランスジェンダー女性(*①)に対する攻撃は、怒りを向ける先に関する問題でもあると私は考えています。
シスジェンダーの女性がこれまでさまざまな差別や暴力に遭って、傷を負ってきたという背景はわかります。だからと言って、トランスジェンダーの人たちの自由や権利を否定することは怒りをぶつける対象を間違えています。
私たちに必要なのは、一緒に怒ってくれる仲間です。一緒に歩いていける仲間を見つけることが、自分が受けた傷を癒やすことにもつながります。「私のほうがつらいんだ」とマイノリティを攻撃するのではなく、社会の仕組みに対して怒ろうよ、というのが私からのメッセージです。


*①出生時に割り当てられた性別と性自認(自らの性別に対する認識)が一致しない人。シスジェンダーとはこれらが一致する人。昨今、世界的にトランスジェンダー差別は激しさを増しており、宗教右派による差別扇動のみならず、一部のフェミニストが差別に加担するなどの問題が起きている。


飯野由里子 いいの ゆりこ
東京大学大学院教育学研究科附属バリアフリー教育開発研究センター特任准教授。一般社団法人ふぇみ・ゼミ&カフェ運営委員。著書に『レズビアンである〈わたしたち〉のストーリー』、共著に『「社会」を扱う新たなモード:「障害の社会モデル」の使い方』(以上、生活書院)など、監訳書に『ホワイト・フェミニズムを解体する:インターセクショナル・フェミニズムによる対抗史』(明石書店)がある。


谷口愛沙 たにぐち あいしゃ
真宗大谷派富山教区安專寺衆徒、京都光華女子大学真宗文化研究所臨時職員。主な論文に「鈴木大拙の妙好人論」(学位論文)、共著に「鈴木大拙著「近代他力神秘家の言葉」翻訳・訳注(1)」(『仏教学セミナー』第115号)、エッセイに「「またね」と言ったのはなぜか?」(『お盆』2023年版、東本願寺出版)がある。