『同朋』4月号対談を特別公開します

掲載日:2024/04/23 18:14 カテゴリー:メイン



「何となくいろいろ?」じゃない!
多様性の解像度を今より何歩も先へ。



近年よく耳にする多様性(ダイバーシティ)という言葉。でも、具体的にはどういうこと?
『ニューロダイバーシティの教科書』の著者で臨床心理士の村中さんと、
親子のつどいにお寺を開放している泉さんの対談です。






「みんないい」と口にする前に

 先生の『ニューロダイバーシティの教科書』を読んでいたら、子どもが「ねえ、そのニューロダイバーシティって、そんなにすごいの?」って聞いてきたんです(笑)。先生ならこの言葉をどんなふうに説明しますか?
村中 つい先日、ある小学校で講演したのですが、子どもたちに「実はみんなが思うほど人間同士って似てないんだよ」って話をしました。モニターに「人間は一人ひとり違う多様な存在」って言葉をポンと出して「みんなどう思う? イエス・ノーで答えて」と聞くと、みんな「イエス!」。次に「自分がイヤなことは相手にしちゃダメ」という言葉を出すと、また「イエス!」。問題はここからで「でも、「自分がイヤなことは相手にしちゃダメ」がイエスなら「人間は一人ひとり違う」はノーじゃないと合わないよね?」。子どもたちはザワザワしていましたね。
「自分がイヤなことは相手にしちゃダメ」の前提には「同じ人間だよね」という考え方があります。でも、本当は「一人ひとり違う人間」だから、自分のイヤと誰かのイヤは同じじゃない。それを教えてくれるのがニューロダイバーシティ、直訳すると「脳・神経の多様性」だよ、と。
 多様性という言葉は昨今よく耳にします。たとえば、金子みすゞさんの「みんなちがって、みんないい」という有名な言葉が、子どもが通う学校の学年テーマなんですよ。
村中 「みんなちがって、みんないい」というのはその通りですが、何がどう違うのかという前段が大事です。実際、脳や神経という人間の根本的な情報処理システムまでもが多様だと理解している人はそれほど多くありません。
「同じ人間」という言葉の背景にあるのは、人類に「正しい」神経基盤が共通しているという考え方です。これはニューロユニバーサリティという、ニューロダイバーシティとは逆の考え方。ニューロダイバーシティ的には、たとえ同じ絵を見たとしても、私と別の人では視覚情報の処理の仕方に「違い」があるのは当然です。
ニューロダイバーシティの観点では、この社会で多数派を占めるのはニューロマジョリティ、より一般的な言い方ならば「定型発達」の人たちです。もちろん、この人たちも一人ひとりさまざまですが、より明確に「違い」を体現しているのは、「発達障害」や「自閉スペクトラム」などの少数者、ニューロマイノリティと言われる人たち。マジョリティとマイノリティの「違い」はまさに人間が多様な証であって、そこに優劣はありません。
 『仏説阿弥陀経』というお経に「青い色には青い光、黄色には黄色い光、赤い色には赤い光、白い色には白い光があり、それぞれ光り輝いている」といった言葉があります。浄土という世界に咲く蓮華を描写した言葉で「それぞれのカラーのままお互いを尊重できるように」との願いが込められていますが、現実はなかなか厳しいです。
村中 私なりにその言葉を考えてみると、蓮華自体が青黄赤などの三原色を有しているのではないと思うのです。多くの人は三種類の視神経で色を認識するので、私たちは三原色という実体があると考えがちですが、二原色で世界を認識する人もいます。かつてはそうした人は「色覚異常」と言われていましたが、現在では人間の色覚は多型であるという認識が広がりつつあります。それでも、三原色の認識が「普通」とされる社会では、生きづらさを抱えます。


多様性を許さない日本の社会

村中 だから、今回のテーマでいえば、多様性を「まもる」という点が大事です。色覚の多型にかぎらず、人は事実としてニューロダイバーシティな存在で、その多様性は「認める」とか「寄り添う」で済むものではありません。しかも、これまで「私とあなたは違う」という事実はあまりにも軽視され、ないものとされてきました。この「違い」を明確に捉えなければ、多様性と言っても言葉遊びになってしまいます。
 多様性が叫ばれながらも、実態が伴っていないのは子どもからすれば「話が違う!」ってなりますよね。
村中 そうです。多様性の尊重を理解している子どもほど、しんどいはずです。
 たとえば、幼稚園では泥んこ遊びとか、自由に遊んでいたのに小学校では自由に立ち歩くことはできません。そういう意味ではかなり制限のある空間です。
村中 多様性という言葉がどんなに現場に浸透しても、社会的な選択肢がないと行きづまります。だから、教育の仕組みを変えていく必要があります。
これまで当然とされてきた教育の問題のひとつは、唯一の「正しい」学び方があるというニューロユニバーサリティ的な発想です。だから「九九は唱えて覚えなきゃダメ」などと子どもに強制してしまう。でも、その方法が合わない子どもはいます。たとえば、算数はすごく得意だけれど、九九を暗記していない子どもに出会ったことがあります。彼は九九の表の一部を視覚で記憶していて、それを手がかりに瞬時に計算できるわけです。
ニューロダイバーシティの観点では、彼の計算能力に問題はない。むしろ全員に同じ教育を強制することは、ある種の教育虐待になってしまうかもしれない。人間一人ひとりが根本的に違うのに、画一的な教育方法しか実施できないのはナンセンスです。
このように具体的に考えていくと「人にやさしくしましょう」「寄り添ってあげましょう」という道徳的な結論だけでは終われません。むしろ現在の社会や教育の仕組みを根本から刷新しないと多様性を守ることは困難です。
ただ、本気で変わろうとしている学校もあります。たとえば、ある公立の小学校で一部、集合型の授業をやっていないところがあります。ひとつの授業のなかで算数を勉強する子もいれば、絵を描く子もいる。一週間のうちの4割くらいを、子どもたちが自分で何をするか決める時間にしているのです。もちろん立ち歩きも自由で、教室は雑然としていますが、子どもたちはその時間に何をやるかを明確に理解していて、すごく熱心です。
「いつどこで、誰と何を、どう学ぶのか」を子どもたち自身が選べるようにしていくことが、学びにおける多様性の尊重だと私は思います。そういう取り組みが広がれば、現実的な教育システムの改革に伴って多様性を守ることができます。
 子どもたちが楽しみながら学んでいるというのが伝わってきます。そんな学校があるなんて驚きです。


多様性は目的ではなく手段

 先生の本には「あなたはどう思いますか?」と語りかけられている雰囲気があり、対話を大事にされていると感じました。学びの多様性のためにも、子どもといつも語り合える場づくりが大事なのでしょうか。
村中 ありがとうございます。ただ、対話さえすれば分かり合えるわけでもないから難しいですよね。親はよく子どもに「話し合おう」と言いますが、いざ話し合うと「いや、それはね」「いや、そうじゃないでしょ?」などとずっと言い訳しがち。場合によっては途中で怒る。子どもからすれば「全然話し合ってないじゃん、私を否定するだけじゃん」となります。
 「自分の価値観を押しつけないように」と思いながら、結局そうなってしまっているという…。
村中 大人同士が対話するときも、対話のメンバーのスタンスは問題です。もし「多様性を尊重しないのも多様性だ」といった意見の人がいたら、その対話は多様性を否定する場になり、むしろ絶望を生みます。
多様性の尊重はあくまでも手段で、目的ではありません。その目的とは一人ひとりの人権が守られ、尊重されること以外にない。だから、そもそも人間を尊重できないとか、他の人権を侵害する意見は多様性の枠内には入らないのです。


〈叱る〉は脳に関わる生来的な問題

 ところで、先生ご自身は子育てでどんなことを大切にされていますか?
村中 私はいろんなことを書いたり、話したりしていますが、自分ができると言ったことは一回もないんです(笑)。ただ「自分の人生は自分で決めたんだ」と子どもが感じる機会をできるだけ増やせたら、とは思っています。とはいえ「ごめんな。それは認められへんで」と伝えることもありますよ。親には子どもより権力があるので、高圧的にならないように気をつけていますが。
 親がもつ権力といえば、子どもが自分の常識とあまりにも違う言動をとると、つい叱ってしまうことがあります。先生は『〈叱る依存〉がとまらない』という本も書かれていますね。親として大事にしている価値観もあり、それをどうにか子どもに伝えたいと思うのですが、〈叱る〉以外の方法は何でしょうか?
村中 〈叱る依存〉というのは私の造語です。私なりの〈叱る〉の定義は「ネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールする行為」。つまり〈叱る依存〉とは「人は(罰などによって)苦しまなければ変わらない(学ばない)」という誤った思い込みに縛られてしまうことです。
根拠もなく、社会的に正しくもない価値観を子どもに押しつけるのは暴力ですが、親が大事にしていることを子どもに託すのはおかしなことではありません。注意してほしいのは、そういうときは必ず「私はこう考えているが、あなたは自由に考えて」と伝えることです。
なぜ〈叱る〉ことが私の課題になったかというと、ニューロマイノリティの子どもたちの学習支援に関わるなかで、すばらしい保護者たちと出会ったことがきっかけでした。子どもに対して愛情が深く、行動力もあり、並大抵の支援者より勉強熱心な人もいました。ただ、保護者はニューロマジョリティである場合が多く、子どもの行動が自分の常識とあまりにも違うので「この社会でこの子は生きていけるだろうか」という不安を抱えている場合もあります。そういう切実な事情ゆえについ子どもを叱り過ぎてしまうという問題を抱える方もいて、もう本当に親子で苦しい思いをしておられました。そのことがずっと心に残っていたんです。
その保護者たちはすばらしい人たちですから、どう考えてみても、その人の人格の問題でも、まして愛情や努力の問題でもないんです。それなのに子どもたちが叱られるのはなぜなのか、考え続けました。すると、ある論文に「規律違反をしている者を処罰するという意思決定をすると、人間の脳はドーパミン(快をもたらす神経伝達物質)を放出する」とあったんです。要は誰かが「ダメなこと」をしているとき、多くの人の脳そのものが「叱りたい」と感じる、ということが検証されていて「これだ!」と思いました。
つまり〈叱る〉のは一部の親の問題ではなく、人間の生来的な問題ではないのかと気づいたのです。だから、私たちはしばしば延々と〈叱る〉ことを続け、しかも繰り返してしまう。〈叱る〉は親子関係だけでなく、会社などの組織では、とんでもないことにときとして推奨さえされます。でも、誰もが生きやすい社会をめざすうえでは〈叱る〉を少しずつでも手放していく必要があります。


自分がわかると幸せになる

 ニューロダイバーシティという言葉にふれて、一人ひとりに特性があるなら「じゃあ私は?」と気になってきたんです。すると多様性って、とても身近な自分事で、もっと自分のことが知りたくなる前向きな言葉だな、と思えてきて。
村中 それはすごく大事ですね。自分で自分を知ることをメタ認知と言うのですが、自分自身を知っていくと「私とあなたはここが違うね」と語り合うことができます。すると、おのずと〈叱る〉ことも減るはずです。
最近、ウェルビーイング(心身または社会的な健康・幸福のこと)の研究がさかんですが、ある論文によると個人のウェルビーイングはその人が属しているコミュニティに影響されるようです。つまり、幸せなコミュニティに属していると、そのメンバーも幸せなのですね。じゃあ、そのコミュニティの幸せはどこからくるのかというと、そこに人が集まることでよりよい知恵が生まれるからだ、と。そして、よりよい知恵が生まれるのは、そのコミュニティに属しているメンバーのメタ認知の高さ、つまりメンバーが自分のことをよくわかっているかどうかに関わる、というのです。
自分自身を知り、相手のこともよく知っていると「あなたはこれ得意だよね」とお互いを気遣えるので、調整も円滑でしょう。すると、そのコミュニティ全体に「これって私たちだから、できることだよね」という満足感も生まれる。だから、そのメンバーも幸せを感じることができるわけです。
泉さんが言われたように、ニューロダイバーシティにふれると自分の特性にも目が向きます。その結果、他者だけでなく、自分自身をより深く知ることができて、それは幸せや生きやすさにつながっていきます。
 ニューロダイバーシティの人間理解って、どこかとてもあたたかみがあるなと思いながらお聞きしていました。
最後になりますが、今を生きる子どもたちに先生はどんな声かけをされるのか、教えていただけますか?
村中 私たちに今必要なのは希望という二文字です。私自身、日本の教育に絶望しかけたこともありましたが、先ほど話したような変化もあり、現在は過渡期だと思います。
小さな希望かもしれないけれど、「これは!」と思える人も取り組みも探せば必ず見つかります。私もがんばるから、希望をあきらめないでほしい。今しんどい子どもたちにそう伝えたいです。



村中直人 むらなか なおと
1977年大阪府生まれ。臨床心理士、公認心理士。一般社団法人子ども・青少年育成支援協会代表理事。Neurodiversity at Work株式会社代表取締役。人の神経学的な多様性に着目し、脳・神経由来の異文化相互理解の促進、および学びかたの多様性が尊重される社会の実現を目指して活動。著書に『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)、『ニューロダイバーシティの教科書』(金子書房)ほか。


泉 阿弥華 いずみ あやか
1987年福岡県生まれ。2児の母。真宗大谷派京都教区泉龍寺衆徒。真宗大谷派青少幼年センタースタッフ。京都光華中学・高等学校非常勤講師。お寺がほっこりできる場のひとつになるよう願って泉龍寺で親子のつどいや寺ヨガを開催している。