『同朋』5月号対談を特別公開します!
「声」は、人と社会を映す鏡。
誰かとコミュニケーションをとる時、私たちが何気なく発している「声」。
実は「声」には、その人や、社会の姿が現れると言います。
音楽・音声ジャーナリストとして活躍する山﨑広子さんと、
長崎県大村市の正法寺で坊守を務める長野文さんとの「声」をめぐる対談です。
失声症にかかって意識した声の世界
長野 現在は長崎でお寺の坊守(住職の配偶者)をしていますが、声楽を4年ほど学んだことがあり、「声」は私にとって大切なテーマです。また、国立音楽大学で身体と音楽の関わりについて学んだ後、障害児対象の音楽療法についても学んでいたので、今日は人間の身体全体に関わる「声」についてお話しできることを大変楽しみにしていました。
山﨑 ありがとうございます。
長野 山﨑さんは音楽・音声ジャーナリストとして、音声が心身に与える影響を認知心理学をベースに研究されていますが、きっかけはご自身の失声症だったとか。
山﨑 そうです。中学校に入った頃、急に声を出すことができなくなってしまったんです。1週間ほど経つと小さな声で会話できるようになりましたが、その後も声が出なくなるという症状が断続的に起こりました。病院に行き、声の専門家の訓練に通ったりもしましたが、声帯に異常はなく原因はわからないし、いっこうに治らない。悶々とした状態が10年くらい続いて、これは自分で何とかするしかないと声の勉強を始めたんです。
また同じ時期に、音楽心理学にも関心をもちました。小さい頃からピアノを習っていたこともあり、音そのものにすごく興味があったんです。そうして音楽や音声が脳や心身に及ぼす働きかけの不思議さを知っていくうちに、声を出す際にも同じような働きがあるのではと、声の世界に深く引き込まれていったんです。
改めて考えてみると、声は人間にとってあまりにも身近なコミュニケーションツールなんですね。でも、単なるツールであるということで済ませられない。自分と他者、社会をつなぐものでもあります。だから、声にははかり知れない情報が含まれていて、鏡のようにその人の内面や社会の姿を映している、と思うんですよ。
声を通して現れる主体がその人
長野 「声・音」の語源はラテン語の「sonare」で、「個人」を意味する英語の「personal」という言葉にも含まれています。そういうことも興味深いですね。
山﨑 「person」(人間)は、ラテン語で「仮面」の意味をもつ「persona」に由来していますが、もともとは「per」(通す)と「son」(音)でした。つまり、音を通して現れる主体がその人の人格である、ということです。
長野 なるほど。実は山﨑さんとお話しするにあたって感じたのは、声って準備できないなということでした。声以外は準備できるんですよね。身なりを整えて、お化粧をして。でも声は隠せない(笑)。
山﨑 逆にちょっと装った作り声なんかにすると、相手の心に届かないし、壁のある人だなという印象を与えます。人間が声を作り出すメカニズムって奇跡的で、聴覚と脳と呼吸と、声を出す声帯、声道を含めて、多くの細かい筋肉と何千何万という神経細胞の共鳴なんですね。だから、ほんのちょっとした意識が声に反映されてしまう。顔をしかめていれば声は暗くなるし、疲れていれば言葉の出だしが擦れたり、隠していた自分の思いや感情、体調の変化も顕著に現れます。言葉がまだわからない生まれたばかりの赤ちゃんも、周りの音で世界を知り、親や世話をしてくれる人の声やリズムから感情や体調、行動までも読み取っています。
また、人間は環境音に適応するように自分の出す声を決めているので、大家族で常に大きな声が飛び交う賑やかな環境で育てば、大きな声や人に響く声の出し方を身につけます。逆に静かな環境で育てば、大きな声を出す必要もないので小さな声になるでしょう。声を聞けばその人の人となりもある程度わかります。まさに声は情報の宝庫なんですよ。
長野 かつて声楽の先生に、「声や歌にはその人の人柄が出るから人間を鍛えなさい」と言われたことをいま思い出しました。声は言葉以上にその人を表すんですね。
お寺にいると、電話が毎日10件近くかかってきます。なかには顔を見なくても、声からこの人は何か怒っているなと感じることがあって、そんな時はとにかく聞くことに徹しています。特に自分がいらいらしている時ほど落ち着こうと思って、電話には深呼吸してから出るようにしています。
山﨑 すごくいい方法だと思います。相手が怒っていたり、感情的になっている時は、あえてゆっくり低い声で話してあげると、相手も気持ちが落ち着くということがあります。それに怒った声で話していると、その声を聞いている自分自身もそんな感情に支配されてしまいます。声は他者に影響を与え、さらに自分が発している声で、良くも悪くも自分自身が変わっていく力もあるんですよ。
ところで長野さんのお声って、とても安心感を与えますね。明るさや芯の強さも感じますし、全然作っていらっしゃらない、第一声からぱっと開けている感じのお声です。
長野 ありがとうございます。お寺でいろんな人の声を聞く生活が影響しているのかな(笑)。
自分の声で生きられる社会へ
長野 山﨑さんは、近年、若い女性の声が高くなっていることを懸念されています。どういうことでしょうか?
山﨑 地声は声帯の長さや厚さ、声道の形状によってある程度は決まっていて、背が高いほど声帯が長く声は低い。逆に、背が低ければ声帯が短く声が高くなります。一般的に男性の声帯は女性より長くて太いので低い声が出ます。
ですがとりわけ最近の日本では、自分の声帯に適した地声よりも高い作り声になっている女性がとても増えているように思います。自然界では、声が高い生物は「小さい、弱い」存在です。女性が必要以上に高い声を作るというのは、女性が男性社会で無意識のうちに求められる「小さくて弱い存在」という「女性らしさ」に適合しようとしているように感じます。でもこれは女性の問題ではなく、そうした価値観が蔓延している社会の側の問題です。
実は、女性だけでなくて、ここ数年、若い男性にも高い声が増えているんですよ。コロナの影響もあるかと思いますが、不安があったり緊張していると声って高くなるんですよね。本当の自分というものを出せない、生きにくさの現れのようにも感じます。女性も男性も、誰もが作り声でない自分の声で生きることができる社会にしていきたいですね。
子どもに関しても、たとえば小学校での国語の授業などで、同じ音程、同じ速さで文章を唱和することが絶対視されると、どうしても、子どもたちが画一化されてしまうのでは? と思ってしまいます。つまり、のびのびと声を出せず、「読み間違いをしないように」としか考えられなくなってしまうんですね。子どもの自己表現そのものである声をいかに育てていくか、もっと考えたほうがいい。世の中に多様な人々がいるように、声もまさに十人十色、色とりどりなのですから。
耳も皮膚も音の波を聞いている
長野 声を発することで、いま生活のなかで心がけているのは朝息子を起こす時の発声です。1階にいる私から息子の姿は全然見えないんですが、階段の下で、2階のベッドに寝ている彼をしっかり想像してから声をかけるようにしたら、ほぼ1、2回で起きてくれるようになりました。以前はなかなか起きてくれなかったのですが…。闇雲に叫んでも届かないんですよね。
山﨑 それはすごいですね。声を届けると言っても、聞こえていればいいだろうと下を向いて話していては伝わらないですし、いくらよどみなくしゃべっていたとしても、この人に届けようという思いがそこになければ伝わらないです。
長野 確かに…。そういえば、声って耳だけでなく皮膚でも聞いているそうですね。
山﨑 声を含め、すべての音は、媒質(空気や水など)の分子を押し出すことによる「波」です。つまり音波です。地球上にはさまざまな音波が満ちていますが、人間が耳で聞き取れる音の範囲は一般的に20ヘルツから2万ヘルツの間くらいだと言われていて、2万以上の超音波や20ヘルツ以下の超低周波などは人間の耳では認識できません。でも脳深部には届いていることがわかっています。自分で認識できなくても脳や皮膚は聞いているんですね。
長野 お経の声も身体を伝わって響いてくるので、体内から「波」が呼び起こされるような感覚になることがあります。
あと、最近お寺にいて思うのは、「南無阿弥陀仏」という念仏の声が聞こえなくなっているということです。昔は誰かが「なまんだぶ、なまんだぶ」と称えると、それこそ念仏の声が波紋のように広がっていったと聞くのですけれど。
山﨑 そうなんですね。私は昔の建物を巡るのが好きで、お寺にもよくお参りするのですが、特に木造建築は、音の波が木にあたって吸収されています。その時、音って実は熱を発しているそうですよ。だからお堂の天井とか床とか壁とか、みんなの祈りの声の響きを吸い込んで、その熱エネルギーが何かに少しずつ変わっているようにも思います。
長野 本堂に居ると何となく落ち着くとか、過去の人たちの気配を感じることはありますが、その背景には音のもつそうした科学的な性質もあるのかな。
山﨑 それと人間の脳には、ミラーリング・システムという仕組みがあって、これがあったおかげで人類って言語を獲得できたとも言われています。その仕組みによって、脳が人の声を感じ、さらにその声が心地よかったりすると、自分も声を出したいと思う。人間ってそういう生き物なんですよ。だから長野さんがとにかく「なまんだぶ、なまんだぶ」といい声で称えると、みんな声を出したくなるはずです。とにかく、無心に称え続けることで、まさしくそれが波動のように響いてみんなが一番いい声を出せる状態になる。そういう回路ができていくんです。
響きのなかで伝わってきた教え
山﨑 宗教と声に着目してみると面白いことがわかります。キリスト教の聖人には、聖フランシスコなど洞窟の中で信仰上の変容を遂げた人々がいます。また、イスラム教の始祖ムハンマドが啓示を受けたのも洞窟の中です。洞窟の中で反響する自分の声を聞いていると、喉の力が抜け、楽に発声できるようになり、心身がリラックスします。すると、より楽に響く声が出るようになり、その声は朗々と人々の心にも響いたはずです。
仏教もまた、釈迦から聞いた教えを弟子たちが集って伝えあった結集は七葉窟という洞窟で行われていますよね。そこでは「如是我聞」(このように私は聞きました)と、自分が聞いた釈迦の教えを語ります。釈迦の教えが声と耳を通して集められたわけです。
長野 響きのなかで教えが伝わってきた、ということが具体的にわかる出来事ですよね。身近なところで言うと、私は絵本にリズムや抑揚を付けて子どもと読んで遊ぶことがあるのですが、そうすると言葉が響きをもって伝わりやすくなるなと感じています。
山﨑 まさしく歌の始まりってそういうことだったんだろうと思いますね。
長野 お経も節や抑揚を付けて伝わってきたということがあります。考えてみると声が発せられるというのは、すごく大きなことですね。
ところで山﨑さんは歴史上の人物の声についても書かれていますが、親鸞も声が良かったんでしょうか?
山﨑 きっと良かったと思いますよ。親鸞さんもまた、いろんな先人たちの念仏の声に出会って、その響きを喜びとして感じ取り、ご本人もずっと称えておられた。その声は人の心を動かす声だったのかなと思います。
いくらスピーチのテクニックがあってスラスラ話せても、本当に人の心を動かすのは、作りものや飾った言葉ではなく、その人自身がもっている真実性が伝わる声です。ほとんどの人は録音した自分の声を聞くと嫌だと思うわけですが、でもそのなかに時折「いいな」と思える声があるはずです。それがその人の脳が認める本物の声です。今向き合っている人に、自身の本物の声で語ることを続けていると、きっと何かがお互いに変わっていくはずですよ。
長野 ちょっとした誰かの声かけに救われたり、雑談でも聞いているだけで安心したり、亡くなった人の声からその面影を思い出したり。声には本当にさまざまな働きがあり、一人ひとりの人間にとって重要なものなのに、これまであまりにも無自覚だったなと思いました。
浄土真宗で大事にしているお経などには、「声」「音」「聞」という漢字がよく出てきます。特に「声」が多く出てくるのは『仏説無量寿経』というお経の「安楽国」を表現している箇所です。安楽国はお浄土のことで、我々が還っていくところ。その国を表すところに「声」という言葉が多く出てくる。その国で響いている「声」を聞いていきなさい、というのが真宗の教えなんじゃないかと思うんです。
南無阿弥陀仏というお念仏も、まずは自分自身の耳で聞き、そして自身で念仏する体験を繰り返さないことには、その言葉が自分のなかに届かないし、自分のなかで変化していくこともないと思うんですね。声のさまざまな面を説明くださって、今日は多くの気づきをいただきました。ありがとうございました。
山﨑広子 やまざき ひろこ
長野県生まれ。音楽・音声ジャーナリスト。一般社団法人「声・脳・教育研究所」代表理事。国立音楽大学を卒業後、複数の大学にて心理学および音声学を学ぶ。音楽ジャーナリスト・ライターとして取材・執筆するとともに、音声が人間の心身に与える影響を認知心理学をベースに研究。2017年NHKラジオ講師。著書に『8割の人は自分の声が嫌い―心に届く声、伝わる声』(角川新書)ほか。
長野 文 ながの あや
福岡県生まれ。真宗大谷派僧侶。国立音楽大学音楽教育学部(リトミック専修)を卒業後、東京学芸大学特専科にて特別支援教育の教員資格を取得し、数年間中学校等で働く。現在は真宗大谷派九州教区正法寺(長崎県大村市)坊守。同寺で「月1回報恩講/行いがわたしを導く時間」という、「仏事」の体験を主軸に置いた親鸞聖人のご命日の集いを開いている。