『同朋』7月号「Q&A お墓の「?」に答えます」一部を特別公開!

掲載日:2024/08/02 15:43 カテゴリー:メイン

「Q&A お墓の「?」に答えます」



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月刊『同朋』7月号は特別企画「お墓ってなんだろう?」。その中から、お墓に関する素朴な疑問に答えるQ&Aの一部を公開します。
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朝の両堂
Q1 「お墓」って昔からあるものなのでしょうか?
日本でよく見る形のお墓は、いつごろから建てられるようになったのでしょう。


A 石塔が一般化するのは江戸時代からです。

そもそも「お墓」とはなんでしょうか。石塔の下に遺骨を埋葬して、死者や先祖をお参りする形態が「お墓」だとイメージされていると思います。これは、いわゆる「石塔墓」です。しかし、遺骨や遺体を埋葬(かつての土葬)した上に「石塔を建てる」形態は、お墓の歴史をみますとそれほど古くからではありません。
紀元前の縄文・弥生時代の「お墓」は、大きな甕の中に遺体を入れて埋葬する「甕棺墓」、遺体を埋葬して方形の塚を築き、周りに溝を巡らした「方形周溝墓」でした。3世紀から5世紀頃の古墳時代には、台地や丘陵斜面に横穴を掘った「横穴墓」がありました。大きな古墳は天皇や権力者の墓です。平安時代末期(12世紀末)にできた『餓鬼草紙』には、遺体を埋めた塚(墳墓)の上に卒塔婆や五輪塔が描かれています。しかし、棺や死の間際に生きたまま放置されたとみられる遺体も描かれていて、餓鬼や犬が屍骸と人骨をまさぐっています。庶民では野捨てにちかい「遺棄葬」もありました。
塚の墳墓に建てられた五輪塔などは「お墓」ではありません。五輪塔の五輪とは「地・水・火・風・空」といって、仏教では世界や人間を構成する五つの要素であると説明されます。それは「仏」を表していて、遺骨や遺体の上に安置して死者を供養している石塔です。つまり石塔=墓(墓石)ではなく「供養塔」でした。丘陵の雑木林で発掘された一の谷中世墳墓群(静岡県磐田市)は、平安時代の終わりから中世末期までのお墓でしたが、ほとんど石塔は出てきませんでした。庶民の墓は遺骨を埋葬して丸石を敷き詰める形態で、あたかも「賽の河原」のような光景でした。
死者や先祖を祀る「お墓」としての石塔が一般化するのは江戸時代からです。それでもまだ一部の富裕層しか墓を持てませんでした。ごく普通の人々が墓(石塔)を造るようになったのは、明治以降といってもよいかもしれません。かといって庶民には墓がなかったのではなく、遺体や遺骨を埋めた埋葬「墓地」はありました。


朝の両堂
Q6 お墓とお内仏(仏壇)には、どういう違いがあるのでしょうか?

A お墓は「亡き人の遺徳を偲ぶ所」、お内仏は私たちの「帰依所」です。

素朴なご質問ですが、大変に重要な疑問ですね。「お墓とお内仏は、どちらも亡き人をお参りするものではないか」。こういった思いと考えが背景にあると推察します。 簡潔に申しあげますと、お墓は「亡き人の遺徳を偲ぶ所」、お内仏は私たちの「帰依所」です。 お墓とは、先に述べましたように亡き人の遺骨を納めた所です。「亡き人の遺徳」というのは、例えば両親が生涯をかけて、この私に示してくれた「亡き人の真実」のことです。ですから、お墓参りというのは亡き人を偲び、思いをいたして亡き人の真実にふれ、そして合掌することです。お盆のとき、暗くなった境内墓地で泣き声が聞こえてきました。行方不明だった息子が親の墓の前で一人、オイオイと泣いていたのです。親不孝をした後悔の念が込み上げ、親の真実にふれたから号泣したのでしょう。 一方、自宅に安置するお内仏は、今生きている私たちの拠り所です。お内仏の御本尊は絵姿の阿弥陀如来です。如来は色も形もないはたらき(用)ですので、私たちが分かるように人間の姿で顕れたのが絵像の阿弥陀如来です。「南無阿弥陀仏」は、如来が言葉になって顕れてくださった御本尊です。人間としての身を生きている私たちは、生きることに迷い、無明のゆえにゆく道が分からなくなります。しかし、どんなに行き詰まっても私たちは真実を求めようとします。真実に生きたい、真実なこころ、真実信心を願います。お内仏の阿弥陀如来は「必ず救いますから、まかせなさい」とはたらきかけてくださっています。お内仏で合掌するのは、御本尊に対してであって、亡き人に向かって手を合わせるのではありません。亡き人は本尊ではなく、念仏者として生きた先達であり、お浄土においては諸仏の位の仏なのです。

回答者 蒲池勢至(民族学者・同朋大学仏教文化研究所研究顧問)