『同朋』8月号対談を特別公開します

掲載日:2024/09/03 18:52 カテゴリー:メイン

「構造的不正義」の責任を担い、「われわれ」は未来を変えていく。



行間の調整例

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朱 喜哲(大阪大学招へい准教授)× 長谷 暢(東本願寺沖縄別院輪番)



見ず知らずの他人も共に生きる人間。なのになぜ、不平等?
そもそも「正義」って何?―じっくり、まじめに考えてみましょう。
西洋哲学を研究する朱さんと、沖縄で「平等」を考える長谷さんに語り合っていただきました。



沖縄の不平等な現実

長谷 少し自己紹介をしますと、沖縄に来て今年で二十数年になります。自分の連れ合いは沖縄出身で、義父母や親戚は沖縄戦などを経て生活してきた方々です。あるとき、義理の母が「うちの娘婿は、やまとんちゅだけどいい人よ」と地元の人と会話していて、つまり「日本人だけどいい人よ」と。こんな日常の一言にも歴史を肌で感じます。
私は現在、東本願寺の沖縄別院という場所で働いています。沖縄における浄土真宗の背景を説明すると、もともと1609年に薩摩藩が琉球王国を侵略し、薩摩同様に琉球でも真宗は禁制となります。しかし那覇の士族の一部、薩摩藩と交流のあった船乗りや遊女などが真宗の信者になっていきました。
私自身、沖縄の人々と僧侶として関わるとき、沖縄の歴史では私などのいわゆる「日本人」には侵略者または入植者の一面が事実としてあり、それをふまえつつ沖縄の文化、たとえば宗教観と向き合うので、やはり葛藤はあります。同時に侵略者などと聞くと感情面で非常に反発を覚える人がいるのもわかります。ただ、先ほどの日常会話のように、薩摩藩の侵略にはじまり、日本の米軍基地の七割が沖縄に集中するという「基地問題」まで、あまりに不平等な現実があるわけです。
朱さんのご著書『〈公正〉を乗りこなす』(2023年)では、こういった不平等の問題を「構造的不正義」という言葉で論じられていますね。この「構造的不正義」という言葉の内実もお聞きしたいのですが、まずは「正義」について教えていただきたいのです。ご著書のはじめのほうに「善」と「正義」を区別すべきという議論があり、大変興味深く読みました。
というのは、宗派で大切にしている親鸞の言行録で『歎異抄』という書物があり、そこに「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(私は善悪について全く知らない)という親鸞の言葉があります。これをもとに「「善」や「正義」はおおよそ自己中心的なものに過ぎない」といったことが宗派ではよく語られます。だからなのかわかりませんが、「善」や「正義」という言葉を正面から取り上げる僧侶は多くありません。でも、朱さんが用いている「善」や「正義」は、それとは全然違うように感じます。ですから、まずこれらの言葉について教えていただきたいのです。

 「正義」と「善」を切り分けるというのは、『〈公正〉を乗りこなす』の一丁目一番地のメッセージです。この議論は、ジョン・ロールズ(1921~2002)という哲学者の思想に依拠しています。「善」とは個々人が大事にしている思想や信念のことで、信仰もここに含まれます。そして、そのような私的な「善」と別の次元で、公共的な「正義」を考えるのです。これがリベラリズム、つまり自由を重んじる考え方のひとつの肝要でもあります。
そもそも自由が大事というとき、西洋においてまず想定されているのは、信教の自由です。ざっくり言えば、いわゆる宗教戦争の時代、カトリックがプロテスタントを徹底的に弾圧した長い加害の歴史がありました。宗教弾圧のネガティブな歴史を経て、その反省から生まれてきたのがリベラリズムでもあり、国家などの公権力が個々人の内心、たとえば信仰に手を突っ込むべきではない、とんでもない残酷な状況が生まれるからそこは放っておこう、と。
だから、この場合、「宗教的寛容」という言葉は、他者の内心に関する一種の積極的な無関心を指します。思いやりややさしさではなく、市民社会を安寧に保つうえで個々人の内面には無関心でいよう、というかたちでの寛容なのです。私たちはつい他者の内心に手を突っ込みたくなるわけですが、それにブレーキをかけるのです。
このようにして保たれる市民社会の秩序とは、個々人の内心はともかくとして「皆で何とかやっていくしかない」という状態です。私が最も注目するロールズの言葉のひとつですが、彼によると社会は「皆でとりくむ命がけの挑戦」(a cooperative venture)です。個々人の「善」が互いに衝突するのを何とか調停し、合意に至った状態に「正義」があると彼は考えます。
つまり、個々人の「善」のレベルでは宗教的信念を含め、それぞれ全く価値観が違うわけです。宗教戦争と言わずとも、日常的に一触即発の危険に満ちた場所として社会がある。しかし、だからこそ社会を共に構成する一員として、皆で一緒にやっていかざるを得ない。その冒険的営みにおいて「正義」が必要とされるのです。
そして、この「正義」のレベルで問題になるのが「構造的不正義」です。長谷さんが先ほど言及された沖縄戦や基地問題は、日本社会におけるマジョリティが歴史的に維持してきた「構造」によって生じている問題で、その責任は間違いなくマジョリティにあります。しかし、マジョリティの一人がそれを全て背負って贖罪することは不可能です。だから、個人の責任と、皆で取り組むべき「構造」の責任を分けようという発想になります。


未来への責任

 ロールズの説は当時の思想界を一変させるような画期的なものでしたが、当然さまざまな批判がありました。たとえば、「善」は私的で「正義」は公的だと分けるとき、過去の出来事も含む現在の「構造的不正義」について、個々人が担うべき「正義」への責任はいかなるものか。そういうことがロールズの枠組みでは少し見えにくい。そのときにアイリス・マリオン・ヤング(1949~2006)という哲学者の思想が手がかりになります。
ヤングは責任について、二種類の時間的な区別をします。過去に遡る責任と、未来への責任です。過去に遡る責任とは、現在の不正義がなぜ現れ放置されてきたか、そのプロセスを洗い出して、責任を追及していくわけです。ただ、この場合、誰か特定の個人だけに過去の責任を割り当てて済むということにはならない。たとえば、沖縄戦などの場合、旧帝国軍首脳部の責任は当然あるわけですが、その人々を当時選び、判断を黙認した数多のマジョリティがいるわけで、これは構造的な問題でもある。だから、個々人の責任のみに問題を帰属させて解消とはならない。
でも、現状を少しでもましなものにしていくという未来への責任は、この社会を構成する市民の誰しもが有しています。過去の「構造的不正義」の責任を一個人が背負い込む必要はないとしても、その責任の一端を担い、未来に向けて一市民として力を尽くすことは可能です。

長谷 真宗大谷派という宗派は、第二次大戦下で戦時協力した責任を受けて、戦後「身命にかえて戦争の防止に努力します」(『真宗』1987年5月号)といった言葉を発してきました。そのように戦争責任を省みることは大事なのですが、殊に基地問題に関しては「戦争の防止」を言うだけでは十分に向き合い切れないのです。というのは、基地問題は沖縄戦から戦後に至る地続きの問題でもあるからです。だから、ヤングの説のように責任に関して過去と未来とを一旦分けたうえでなお、過去をふまえた現在、また未来への責任が私たち一人ひとりの市民にとって大事ですね。


「正義」という訳語の問題

長谷 先に申し上げたように「正義」という言葉を正面から引き受ける僧侶は多くありません。その理由を私なりにいろいろと考えているのですが、仏教ではこの言葉を「正しい道理」といった意味で正義と読んできた歴史があります。19世紀のある文書には「みずからは浅はかで悪事に流されがちな凡夫だ」という自覚が正義である、などと記してあります。これは大事な了解ではありますが、正義が全然公共的な関心と結びつかない理由のひとつかもしれません。

 『〈公正〉を乗りこなす』のなかで、「正義」は道徳などの個人的心情の問題ではないということを繰り返し書きましたが、やはり翻訳語の問題はあるかもしれません。英語では“Justice”で、“Just”に「ちょうど」という意味があるように、バランスが釣り合った状態を意味します。正義の女神という、目隠しをして秤をもっているシンボルがありますが、個人の信念とは別に公共的な「正義」がある、という考えが“Justice”には託されています。だから、それは仏教の正義という日本語とは全然異なる文脈にある言葉です。
翻訳語の問題は現在進行形でもあります。たとえば、“reasonable accommodation”という言葉は「合理的配慮」と訳されますが、“accommodation”を訳す場合、「調節」「調整」という訳のほうが適しています。「配慮」というのは誤訳と言ってもいい。誰かが常に配慮を心がけるというより、自動的にはたらくべき調節機能が備わるイメージです。「配慮」だと、する側と、してもらう側のニュアンスがあります。だから、「配慮してもらうのに礼も言えないのか」といった非難が生じやすい。言葉は生きものでもあるので、ある言葉を選ぶと一種の思考のくせで、そんな連想がはたらいてしまいます。
日本語の多くの言葉づかいの思想的な含意や連想には、漢語や仏教などの文化が深く関係しています。だから、この言葉をこう訳すとこんなニュアンスになるんじゃないか、といったことは哲学者だけではなく、もっと広い領域の方々、たとえば宗教者なども含めた対話が必要かもしれないと思います。


イラスト:@Natsu.me

「正義」と浄土?

長谷 先ほど言われたように、信仰はあくまでも個人の「善」のレベルであって、せっかくロールズがそれと分けた「正義」を宗教的な言葉づかいで語ることには問題があるわけですが、自分がこれまで学んできた浄土真宗の言葉ではどう受けとめることができるのだろうかということはやはり考えました。
私にとって「正義」は浄土という言葉に当たるのかもしれません。浄土とは、阿弥陀仏という仏がまだ覚りをひらく前、求道者であったときに建てた四十八の願いによってかたちづくられた世界なのですが、一つひとつの願い、たとえば肌の色による差別を認めないという願い、「美醜」とされる価値づけを認めないという願いなど、私たち一人ひとりがそれらに同意する、頷くことによって成就する、と説かれています。
この浄土という世界が説かれるのが『仏説無量寿経』という経典で、十二回翻訳されたと伝えられています。五存七欠と言って、五つの訳が現在に伝わり、七つは失われてしまったのですが、伝持されてきた訳の一つが『平等覚経』という経典です。現存するどの訳でも、ただ南無阿弥陀仏と称える念仏によって、あらゆる者が平等なる覚りを得るという点は共通しており、経典のタイトルになるほど「平等」を大切にしてきた教えです。
親鸞の先生である法然は『選択本願念仏集』という書物のなかで、阿弥陀仏は「平等の慈悲に催されて」ただ念仏のみによって、あらゆる人間が救いを得ると説いたのだと言います。この平等という視点が現実の日本では見落とされがちのように思えて、最近特に大事に感じます。平等であるということは個々の人間を超えて、あらゆる生きる者の大きな願い、「正義」ではないのか、と。

 とても興味深くお聞きしました。不平等な状態があってはならないということをふまえたうえで、宗教的理念として「平等」という言葉が用いられるのは、よくわかる気がします。
実はロールズ自身、かつて神学を志していたほどに信仰をもった人物でした。しかし彼は第二次大戦に従軍し、占領軍の一員として原爆投下直後の広島をまのあたりにして帰国した後、神学ではなく政治哲学の研究に進みます。宗教的感性があったうえで、しかしロールズの思想は徹底した世俗主義です。
私自身、父が牧師であるという背景もあり、キリスト教徒にも個人の信仰として社会正義を引き受け、実践する方々がおられるのを知っています。当然その方々に尊敬の念がありますが、あえて言えば、その方々においては個人的「善」と公共的「正義」が偶然、合致しているのだと思います。それはすばらしいことですが、とてもまれなことで、誰もがそうあらねばならないというレベルで語ることができない。ロールズが述べているのは、あくまでも市民としてあらゆる人間が「正義」に関して責任を負うということです。

長谷 なるほど。まさに今言われたように、私個人の「善」と「正義」がもし合致するとしても、本当に偶然でしかありません。たまたま沖縄の方と結婚し、沖縄戦で親族を亡くされた方々と関係ができたことが、現在の自分にそう思わせているわけですから、そのことはまず私自身が引き受けるべきことだと感じています。


「われら」とは誰のことか

長谷 二十数年住んでいると親しくなった沖縄の方から「あなたも、うちなんちゅだね」、つまり、私たちは沖縄の人だね、と親しみを込めて声をかけられることもあるのですが、どんなに長く住んでも自分は沖縄の人間だ、と言うのは違うな、と感じます。私はそこにある一線を大切にしたいのです。
朱さんはリチャード・ローティ(1931~2007)という哲学者の思想を論じるなかで、「「われわれ」とはいったい誰のことなのか」という課題を大事にされていますね。親鸞は流罪にあうなかで「いし・かわら・つぶて」といわれた被差別民衆と関係を結んでいったようで、「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」と、自分をそこに含めて語っていきます。そういうかたちで「われら」という言葉を拡げて用いていくのです。親鸞のこの「われら」という言葉と、朱さんの「「われわれ」とはいったい誰のことなのか」という課題がつながるように感じたのですが、いかがでしょうか?

 大事な問いですね。ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』という著書に依拠して「われわれ」という言葉を考える際、まず私たちの「偶然性」ゆえにそう言えるのではないかと思います。私たちの出生に関する民族、歴史、文化などは必然的なものではありません。ある意味では、たまたま今このようにあるというものです。つまり、私という存在は偶然性によって編まれていて、自分の境遇が絶対必然だとは言いがたいのです。
個々人にとって大切なルーツ、各種のアイデンティティは否定されるべきではありませんが、もしかしたら、それさえもいずれ変わり得るかもしれません。ローティはそれを「アイロニー」と言います。「皮肉」の意味ではなく、今日よりも明日、明日よりも明後日に自分は変わっているかもしれない。そんな変化に開かれた希望が「アイロニー」です。
そして、そのように変化に開かれた人々は、たとえ束の間であっても「われわれ」という言葉を立ち上げることができると思います。そのとき「われわれ」の一人でも残酷な事態に遭遇していたら、そんなことはあってはならない、と感じるはずです。そういう感情的な連帯をつくっていく営みをローティは「感情教育」と言いました。
長谷さんが言うように、親鸞自身が時の政治権力から追われていくなかで被差別階級と交流をもち、「われら」という言葉を用いていったとすれば、たとえば「「日本人」でなければわからない」というような、誤った本質主義とは全く異質だろうと思います。同じく生きる者としての感情的な紐帯からそう言えたのではないでしょうか。そのことは私もわかる気がします。
ただ、ここからが長谷さんのご質問の難しいところですが、この話を見誤ると「構造的不正義」の責任が曖昧になりかねません。長谷さんは沖縄に関して遠近両方の感覚をおもちと思うのですが、そのように沖縄に同化しないかたちで、責任を担おうとすることはまさに倫理的なふるまいです。同時に、沖縄にルーツをもつ方とそれ以外の方の間にいかなる本質的差異もない、ということは確認しておくべきでしょう。
そういうアンビバレントなあり方を考えざるを得ないというのが、ロールズやローティを経由したうえで、私たちが悩むことができるポイントになると思います。「構造的不正義」の責任を担いつつ、今立ち上がっている「われわれ」として未来に向けて現状を変えていくことが必要です。


イラスト:@Natsu.me

物語がもつ力

長谷 親鸞は「御同朋」という言葉で、他者と平等に出会えた感動を語ります。他者との間に当然あるさまざまな差異に悩みつつ、それでも「われら」と表現したように思います。
先ほど言われた「感情教育」というキーワードですが、ここでの「感情」は理論というより物語などを通して育まれるものだそうですね。仏教の歴史でもある程度、教義の理論が整備されたうえで、のちに現れてくる大乗仏教の経典では物語のかたちが重んじられています。しかも、そこで「一切衆生」、つまり一切の生きる者としての「われら」という言葉が語られていったように思います。

 理論的に物事を区別、分析して考えるのは大事なことです。ただ、理論的思考がむしろ分断を生じる場合もあります。つまり、「人間の本質とは何か」などと物事を区分けしていった結果「人間とは〇〇であり、××は人間ではない」という「非人間化」が成立するという、罠にはまりこむことがあります。
現在ガザで起きていることにも、まさにそうした側面があります。イスラエルという国家はパレスチナの人々を「動物」という言葉で表現し、いわば「非人間化」が成立しています。あらゆる虐殺行為、たとえばルワンダでの虐殺、津久井やまゆり園での虐殺も同様に「非人間化」なしには起き得なかったと思います。
しかし、自分とは違う他者であっても、同じく生きる者として残酷な暴力にさらされるべきではない、そんなことはあってはならない、と感じることも私たちにはあるわけです。そのような共感の回路になり得るのは理論のみならず、物語などの受容を通した感情のはたらきなのかもしれません。たとえば、文学やジャーナリズムの仕事などを通して、自分が知らずにいた境遇に現に生きている人間がいると知ることはできます。
あるいは逆に、物語のなかで残酷なふるまいが描かれていると「ああ、こういう残酷さは自分のなかにもあるな」と気づいたりもします。誰かに残酷なことをもたらし得るという、自分のあり方を省みるということも物語がもつ力です。このように共感可能な対象を拡張していくことが、ローティの言う「感情教育」です。


宗教者にとっての「現場」

長谷 沖縄のことで言えば、沖縄の方々がこれまでさまざまな訴えをなされています。同時に当事者でない者が言語化できることもあるのかもしれません。沖縄が置かれている不平等な現状について、文学者やジャーナリストなど非当事者の方々も発信を続けていますが、今お話にあった「感情教育」ということで言えば、宗教者の役割はどのようなものでしょうか?

 もちろん当事者が語る言葉は大切です。ただ、場合によっては、本当に残酷な状況に置かれて苦境のなかにいる人は、自分の言葉をもつことができないのです。苦境のなかにいる人に「困ったことがあるなら言ってごらん。言わないとわからないよ」などと言うとしたら、とても残酷なことです。だから、ローティは非当事者がみずからの責任において語ることを大事にしています。彼ほどマジョリティであることを積極的に引き受けようとした哲学者はまれかもしれません。
それでお尋ねについてですが、先日ある牧師の方(奥田知志氏)とお話しする機会があって、その方は自分が支援の現場で何度も「新たにさせられた」とおっしゃっていました。支援する・されるという非対称な関係が一見あるようだけれど、むしろ自分が現場から教えられているんだという物語を、それこそ聖書の言葉ともつなげながらお話しされるわけです。
「苦海」とも言えるような現場に宗教者が向き合うとき、少なくとも大事なのは誰に届けるための言葉を用いるのか、ということではないでしょうか。「われわれ」の外に追いやられたような人を、どのように「われわれ」の想像力のもとにつなぎとめることができるのか。そのプロセスのなかで、どのように自分の信仰を語りなおすのか、そういう営みがあるのではないかと思います。文学やジャーナリズムの仕事はもちろんですが、困難に直面する人間と共に生きようとすることは、宗教のあり方そのものではないかなと私は思います。

イラスト:@Natsu.me
朱 喜哲 ちゅ ひちょる
1985年生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)。大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授ほか。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。著書に『〈公正〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』(2023年)、『人類の会話のための哲学 ローティと21世紀のプラグマティズム』(よはく舎、2024年)など。

長谷 暢 ながたに まさし
1973年生まれ。真宗大谷派利覺寺住職、2022年9月より真宗大谷派沖縄開教本部長兼沖縄別院輪番。法政大学沖縄文化研究所国内研究員。琉球大学および大谷専修学院卒業、大谷大学大学院修士課程(真宗学専攻)修了。琉球仏教・真宗の歴史について資料収集・調査を続けるほか「ハンセン病問題ネットワーク沖縄」事務局、「グリーフワーク沖縄」理事を務める。