新連載 一切の幸せ(『同朋』9月号掲載)
新連載 『一切の幸せ』
(『月刊『同朋』9月号~)
行間の調整例
岩川ありさ=作
惣田紗希=絵
月刊『同朋』9月号よりスタートした小説の新連載『一切の幸せ』の第1話を公開します。
主人公は、小学4年生になったばかりのカイ。「どんな苦しみのなかでも、世界には光が射していて生き切ることができる」という願いが込められた、彼女の2年間を描く群像劇です。ぜひご覧ください。
第1話 新しい名前
新聞配達のバイクの音が近づき、新聞受けの底にコツンと朝の音が響く。ゆうべ、お鍋に浸した昆布が柔らかくなった頃だ。麻のタオルケットのなかで寝返りを打つ。まだ眠たい。でも、うっすらと目を開けると、カーテンの隙間から朝の光が漏れてきて、床に一筋の道をつくる。ベッドから起きあがって、素足を板敷の上に踏み出す。今日の一歩目はひんやりとしている。カーテンを開けると、光が部屋を照らして、すべてがおはようを告げている。窓の外、まばゆい青空が見えて、入道雲がのびあがる。
着替えをすまして、階段の踏み板を勢いよく降りる。洗面所で顔を洗って台所に入ると、隣の居間に人の気配はない。わたしは、台所に一礼して、コンロの前に立つ。昆布がゆらゆらと揺れる。お鍋に火を入れる。鍋が煮立ったら、昆布を菜箸で引きあげる。昆布はあとで刻んで佃煮にしよう。なす、オクラ、ピーマンなど夏野菜を多めに入れる。青ネギを刻んで、味噌汁のメインの厚揚げを大きめに切る。
毎朝、これくらいの時間に台所の勝手口からチエちゃんが声をかけてくる。
「おはようー。暑いねー。カイは涼しそうな顔してるね。ビサイの散歩、終わったよ」
いつもおとなしいチエちゃんが早口なときは機嫌のよい証拠だ。隣でビサイが暑さに舌を出している。
「おかえり。汗をあんまりかかないだけで、わたしも暑いよ」
「そりゃそうだね」と言ってから、チエちゃんは、放り出すようにサンダルを脱いで、上がり框に座り、ビサイの足の裏を拭う。ビサイは綺麗な茶色い毛並みの中型犬だ。わたしよりも先にこの家にいたので、最初は恐る恐るのつきあいだったが、三ヶ月ほど暮らしてみて、とても温厚だということがわかった。微細なものをちゃんと大切にしているからビサイという名前らしい。チエちゃんに体を撫でられて、安心して、目を細める。
「じゃあ、ビサイのごはん用意しようか」
チエちゃんが台所の棚からビサイの食器をとりだす。ビサイはチエちゃんの足もとで静かに座っている。ドッグフードは成犬用だが、ビサイはだいぶ食が細くなりつつあった。
今度は廊下口からアカリちゃんが入ってくる。
「おはよう。洗濯機のスイッチを押したよ」
アカリちゃんの言葉で、全員が何かしらの朝の仕事の報告を終えて、それなりに満足そうだ。ごはんが炊ける前の炊飯器のぐつっという音がする。わたしはコンロの火を切って、お味噌をとく。何でもない田舎味噌。だから美味しい。アカリちゃんも、チエちゃんも、この瞬間にだけは黙り込み、深く息をする。いい香りが広がってゆく。ビサイが居間の自分のクッションに戻って、アカリちゃんがちゃぶ台を部屋の真ん中に置く。チエちゃんはおぼんで小鉢やらを運んでゆく。炊飯器がピーッと炊きあがりの音を立てる。わたしは、炊飯器の蓋を開ける。白いごはんが輝いている。わたしはゆっくりとしゃもじでごはんを縦に切り、横に切り、底からふんわりとほぐす。この街には田んぼがたくさんあって、このお米はその恵みだ。お茶碗にごはんをよそって、隣の居間に持ってゆく。東に向いた居間だから、冷房をつけていても、熱気がすごい。それでも、チエちゃんが庭に面した障子を開けようとする。
「ちょっとだけ、開放感がほしい」
そう言って開いた縁側の開き戸の窓の外にひまわり畑が広がっていた。毎日食べる野菜と同じくらい大切にアカリちゃんが育ててきたひまわりだ。黄色い花が風に揺れている。
「毎年、咲くんだよ」
アカリちゃんが、ひまわりを見ながら、ぼんやりとつぶやいた。
「あたしが生まれたときにはあったよね」
十四歳のチエちゃんがそう言うと、「生まれたときのこと、憶えてるんだ?」とアカリちゃんが意地悪く尋ねた。
「お母さんがそう教えてくれたんですよ。いい大人がしょーもないこと言うんじゃない」
とアカリちゃんを呆れた目で見た。
「大人だとか、そういうのは関係ないんじゃないかなー」
二人は毎朝何となく言いあうが、仲は悪くない。
「まあ、いただきます、しよう」
チエちゃんがそう言って、みんなで「いただきます」と手をあわせた。チエちゃんがお味噌汁をひとくち、「いい出汁」とつぶやく。アカリちゃんも、しみじみとお茶碗を手にとる。お箸とお茶碗がかちゃかちゃいう朝の響き。幸せな音だと思う。
「なんで制服着てるの?」
チエちゃんが質問してきたので、「ゆうべも言ったけど」という言葉を飲み込んで、「登校日だよ」とわたしは答えた。
「登校日とかあったねー。暑いのに大変だー」
チエちゃんは中学二年生なので、小学四年生の毎日をもう忘れているのかもしれない。八月五日、毎年、この日に集まって、平和について知る。自分たちで何かを調べたり、つくったりをずっと続けてきた学校なのだ。チエちゃんが、「あたしは映画をみんなと観て話しあったなー」とアカリちゃんの方をチラッと見た。チエちゃんが観たのはたぶんアカリちゃんから教えてもらった映画で、どことなく照れているのだろう。チエちゃんのお母さんはアカリちゃんの大学時代の同級生で、二人は近くに住んでいる。看護師をしている彼女が夜勤のときにチエちゃんを預かることがあった。ビサイの散歩がチエちゃんの日課になってからは合鍵を持つようになって、雨の日も風の日も、誰よりも早くビサイと一緒に散歩する。
「はー、ごちそうさまでした」
チエちゃんは、しばらく畳の上に寝転がってから、もそっと急に起きあがり、食器を片付けはじめた。アカリちゃんも自分の食器をシンクまで持っていって、家事分担表を見た。「洗濯だよね。暑いのに……」とアカリちゃんは情けない顔をする。わたしは二階の自分の部屋に戻って、髪の毛を整えたり、忘れ物がないか確かめる。一階に降りると、ひまわり畑の前で、麦わら帽子をかぶったアカリちゃんが洗濯物を干している。鼻歌を歌いながらごきげんだ。「いってきます」と告げると、アカリちゃんは、「暑いので気をつけてください」と手をふる。
学校までの道にある家々の庭には、ハイビスカス、フヨウ、サルビア、ゴーヤ、バショウなどが咲き誇っている。坂道を登り、カナヘビやヤモリがいる、池のほとりの人工林を抜けたら、図書館と児童館があって、その隣にわたしたちの小学校がある。小さな門をくぐると、校庭に打ち水をする校長先生と教頭先生の姿が見える。「おはようございます」と挨拶するわたしたちに、「おはようございます」と返事して、汗だくの目もとで微笑む。
玄関のところで、昨日も遊んだリカちゃんと会って、「昨日ぶり」と挨拶する。「教室に行く前に職員室によるから」と言って、わたしはリカちゃんに手をふる。リカちゃんも、「ん」とだけ答えて廊下を歩きはじめる。職員室の隣の生徒相談室で担任のフカイ先生と会う。相談室にはお菓子とお茶がたくさんあってソファとぬいぐるみが置いてある。普段はスクールカウンセラーの先生がいるのだけれど、今朝はこの部屋を借りている。担任のフカイ先生がわたしから書類を受けとる。
「名前を変えてきました」
わたしがそう言うと、フカイ先生は書類を確かめて、「はい。了解です」とだけ答えた。事務的だけれど、冷たい感じではなかった。
「なんで変えたのとか聞かないんですか?」
挑発するようにそう問うと、フカイ先生は顔色ひとつ変えずに答えた。
「人は一生のうちに名前を変えることがあります」
何だか難攻不落という気がして、わたしは意地悪な言い方をした。
「前の学校ではすごくたくさん聞かれました。そして名前を変えられなかった。でも、この学校では名前を変えたりするのはあたりまえみたいな感じで不思議な気持ちです」
わたしの正直な気持ちを伝えると、フカイ先生は、柔らかく笑ってから、真剣な顔をした。
「子どもの居場所になるのが学校なんです。苦労せずにすむようにするのが大人の役目じゃないでしょうか」
「でも、前の学校では……」
途中まで言いかけて、わたしは前の学校で自分が粗末に扱われたことを思い出した。なぜ、名前を変えるの? なぜ生まれたときの性別のままで生きないの? クラスメイトが当然のように受けとめているのにたくさんの大人にそう尋ねられて息ができなくなった。
「この世界の全部がそんな場所ではないんですよ」
フカイ先生が優しくそう言ったから、わたしはかえって不安になった。
「わたしはここにいてもいいんでしょうか?」
そう尋ねたわたしにフカイ先生がうなずいた。
「もちろん。あなたがここにいてくれて、私はとてもうれしいです」
わたしは新しい名前を笑わない先生を見つめた。フカイ先生が立ちあがって、夏物のスカートをひるがえして歩きはじめた。
「何もわずらうことなく、あなたがここにいられるようにしますから」
フカイ先生がゆっくりと引き戸を開いた。廊下は光に満ちていて、キラキラと光っていた。わたしはゆっくりとソファから立ちあがって、その廊下に一歩踏み出した。新しい名前が喜ばれた。わたしはそう感じた。
今話したのはわたしの今年の夏休みの出来事。とても小さくて、とても大きな幸せな一日の物語。
いわかわありさ⚫1980年生まれ。著書に『物語とトラウマ』。
そうださき⚫1986年生まれ。著書に『山風にのって歌がきこえる』。
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