『同朋』9月号対談を特別公開します

掲載日:2024/10/24 15:31 カテゴリー:メイン

他力によって「ほんまもん」が生まれる民藝の世界



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松井 健(東京大学名誉教授)× 太田浩史(真宗大谷派僧侶)




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人類学者であり民藝についても学びを深めてきた松井健さんと
民藝と深い縁のある富山県南砺市で住職を務める太田浩史さん。
以前から親交のあるお二人に京都の東本願寺で語り合っていただきました。




『美の法門』が書かれた城端別院

太田 先日、平安神宮の蚤の市にご一緒して以来ですね。あの日は楽しゅうございました。
松井 そうですね。あれは、太田住職からお声がけいただいた9月の日本民藝協会主催の民藝夏期学校の講師のお仕事の打ち合わせの翌日でした。
太田 初めて松井さんとお会いしたのは、2018年の沖縄での日本民藝協会全国大会の時です。実はその時も、夏期学校の講師の依頼をさせてもらいました。懇親会の席で話しかけたのですが、僕は急な雨に降られてしまってひどいありさまだったのを覚えてます。
松井 そうでしたね(笑)。その夏期学校の開催場所が富山県南砺市にある真宗大谷派の城端別院でした。そこは、民藝という言葉を生み出した柳宗悦が『美の法門』という本を書いた、民藝を考える上で特別な場所です。
太田 参加者はもちろん講師の方にも、そんな特別な場所に身を置いていただくというのがこの夏期学校の趣旨でもあります。
以前、城端別院で美術史家の水尾比呂志先生が講師をしてくださったことがあったのですが、講義の後に謝礼をお持ちするとお断りされました。ただその代わりにと、「『美の法門』を書かれた御広敷の間に一晩泊めてほしい」とおっしゃいました。もちろんどうぞと言って泊まっていただいたのですが、翌朝になってご挨拶すると「一睡もできませんでした」とすごく喜んでおられたのをよく覚えています。
松井 これまで柳宗悦について、いろんな場所でお話させてもらいましたが、自分にとって特別な場所が二つありました。
一つは柳宗悦によって開設された東京の日本民藝館です。二階の大広間で、電気を消してプロジェクターで資料を映しながら話していると、満員の受講者の向こうに柳宗悦が壁に寄りかかって立っている影姿があるような気がして、柳本人に聞かれているというような気持ちになってきてすごく緊張するんです。
もう一つが、城端別院です。以前、光德寺の高坂貫昭住職(現・道人住職の先々代)と柳宗悦についてのエピソードをお聞きしました。柳が『美の法門』の執筆に取り組んでいた時のことです。高坂住職がお昼の弁当を持って、柳が思索している部屋に行かれたんですが、その場のあまりの緊張感で閉めてあったふすまを開けて入ることができなかった。だから敷居のところにお弁当を置いて、声もかけずに帰られたそうなのです。この話を教えてもらって、僕が感じた緊張感というのは、まさにそんな感じだったのかなと思っています。


民藝との出会いが真宗の学び

松井 太田住職の民藝との出会いはいつですか?
太田 私にとっては、生まれた場所が民藝の空間だったような気がします。今日は松井さんにお会いできるということで、いくつか民藝の品をお持ちしました。
松井 すごいですね。気になるものがたくさんあります。
太田 ここには前住職である父が集めたものも多くあります。毎日使う食器をはじめとして、物心ついた時にはこうした物に囲まれて育ってきました。
私が生まれた大福寺は城端別院と同じ富山県南砺市で、父は柳先生に私淑していましたし、周りの僧侶や門徒さんの多くにとっては、民藝が真宗そのものだったのだと思います。真宗門徒として民藝を評価するというよりは、むしろ民藝が真宗。それくらい私が生まれ育った場所では、柳先生と棟方志功さんの影響が強いですね。河井寛次郎さんや濱田庄司さんなど、いわゆる民藝の作家の方々もよく富山に来られましたし、窯出しに呼ばれていくようなこともありました。
幼い私は、柳先生は真宗のお坊さんだと思っていました(笑)。でもきっとまわりの人達も同じように、お念仏の道を説く偉大な善知識(仏の教えを伝えてくれる師友)だと感じていたのでしょう。柳先生は、仏教哲学者の鈴木大拙や、真宗大谷派の学僧である曽我量深、暁烏敏、金子大榮とも交流がありましたし、価値観が共有されているのだろうなと、子ども心に感じていました。
ただ私にとって大きな転機になったのは、染織家で倉敷民藝館初代館長の外村吉之介先生との出会いです。それは高校生の頃、精神的に悩んでいた時期に、倉敷で「日本民藝青年夏期学校」が開催されることを知って参加した時でした。
松井 私がこの9月に呼んでいただく民藝夏期学校の元となるものですね。
太田 はい。ただ「青年」と書いてあったのに、実際行ってみると大人の人ばかりだったのです。高校生の私は最年少だったこともあってみなさんにかわいがってもらって、結局3日ほど外村先生のお家でお世話になりました。その時に外村先生から、柳先生が絶賛した沖縄の「芭蕉布」の成り立ちや、作り手が戦時中どんな生活をしていたか、倉敷とどんな縁があるのかなど、いろんな話を聞かせてもらいました。
松井 貴重な経験ですね。
太田 外村先生は、そうしたお話を「法悦」をもって語っておられた気がします。法悦とは、教えに導かれる喜びです。いまは理知的に民藝を語る人も多いですけれども、外村先生の感動がほとばしるような話し方がとても印象に残っています。特に当時、悩める私を引っ張り上げてやろうと、語りかけてくださったのでしょうね。いま思えば、私にとっての民藝との出会いは、非常に質の高い真宗の学びだったのだと思います。純粋な人たちや、法悦が渦巻くなかで、お育てを受けたという思いです。


論理の世界では解けない「直観」の手強さ

太田 松井さんの民藝との出会いも聞かせてください。
松井 僕は元々、「物」が好きだったんです。とにかく身の回りのものはちゃんとしたものにしたい。着る物も気に入ったものしか着たくないという、そういう人間でした。
でもはじめから民藝に関心があったわけではありません。1980年代のはじめでしたか、民藝そのものを生きてきたような人と出会ったんですね。柳宗悦を神さまのように語っていたんです。私は当時、大学で人類学を教える先生という立場でしたが、宗教というのは迷信のようなものという認識でした。その人があまりに柳宗悦のことを神さまのように言うものだから、僕もちょっと勉強して意地悪く論破してやろうと思ったんです。そこで初めて読み出したのが柳の『民藝四十年』(岩波文庫)という本なのですが、これがただならぬものだったんですね。
それまで読んできた学術書や哲学書というものは、議論の場や論理の弱点を突けば批判できるものだと思っていたし、自分はそのように読み解く訓練をしてきたという自負がありました。ところが柳を読むと、そう簡単にいかなかった。
柳の言う最も重要な言葉の一つに「直観」というものがありますね。人間が本来持っている美を感受する本来的な力で、知識や先入観でなく執われのない自由な心と眼によって対象物を見ることです。つまり柳の理屈は、人間の言語や知性、論理は大切だけれども、それらを超越したところにこそ美しいものは存在するというものです。これは認めざるを得ない事実でありながら、学術の方法では解けない手強さがあります。
しかもその「直観」とは、基本的に人間全てに備わっていると言うのです。僕の専門である人類学の分野では、地域の環境や社会などによって変化が起こっているけれども、人類は同じような性質を持っているという考え方があります。そういう視点からも、柳の言葉は自分にとってすごく説得力があったんですよ。
ちょうどその頃、大阪日本民芸館へ立ち寄って柳のコレクションを見る機会がありました。たしかその時は「李朝の民藝」という特別展示をやっていたんですが、そこに集まった物を見て私はものすごい衝撃を受けたのです。柳が言ったように、論理の世界を超えた、言葉では表せないような体験に感じました。そんな美しいものが本当にあるとは、実際に見てみるまで僕は思っていなかったのです。それからは、論破する対象としてではなくて、学びの対象として柳宗悦を読みつづけています。


瀬戸の馬の目皿

生きることと民藝はつながっている

松井 太田住職が持ってきてくださったこのお皿は「馬の目皿」(写真手前)ですね。
太田 そうですね。愛知県の瀬戸の焼き物で、渦巻きがいくつも手描きされている柄です。
松井 この「馬の目皿」は、僕にとっても思い出深いものなんです。初めて『民藝四十年』を読んだ時、1頁全体にこの写真があって、こんなモダンな皿が江戸時代に作られていたのかと驚きました。
そのすぐ後に、用事で行った三重県の伊賀上野駅で電車を待っていたのですけど、プラットフォームのすぐ外に、たしか「古今珍品堂」という名前の骨董屋さんがあるのが見えたので、気まぐれに入ってみたんです。するとこの馬の目皿が2枚掛かっていたんです。値段も覚えていて1枚8000円だったんですけれども、それを旅の始まりに買ったというのが、僕が初めて手にした民藝でした。
太田 面白い出会いですね。
松井 僕にとって、いわゆる学術研究の意味とその限界を教えてくれたのが民藝だったと思うんです。学問の世界のなかだけの約束事に則って延々と歩き切るのも良いですが、その道中で端折ってきた事柄に対して、視野を広げて考えることができるようになったのは柳宗悦の民藝のおかげです。こういう生き方を知ることが出来てすごく感謝しています。
ただ、最近の民藝の流行を見ていると、単に食器であるとかインテリアのコーディネートを「民藝」だと語られているところがある気がします。確かに、食器などとして実際に使ってみるというのはとても大切なことだと思いますが、それでおしまいではないはずです。
つまり、なぜ美しいということが大切なのか。それは単にインテリアではなくて、自分自身が生きていく際の活動と直接関わることです。特に、柳がもっていた宗教心、信心のダイナミックな性質というのが、民藝を考える上でとても大切なポイントだと思います。柳宗悦の宗教は、「白樺」らしい強い個性があって、個人宗教と自称していますが、宗派に偏ることなくキリスト教から仏教にまで通底する深い内容をもっています。柳の民藝はその宗教と一体のものと思います。


民藝の、念仏者の、「ほんまもん」に感動する

太田 今回の特集では、サブタイトルに「他力の美」という言葉が添えられています。松井さんが指摘してくださった「なぜ美しいということが大切なのか」を考える上で重要なのが、他力という言葉だと思います。
ただ、柳先生の薫陶を受けた父親の世代は日頃、「他力」という言葉を使わなかった気がします。民藝についても「美」という言葉は使っていなかったと思う。そのかわり頻繁に口にしたのが「ほんまもん」という言葉です。美しい物を見て「これはほんまもんや」と言って感動するのです。
でも元々、私ら富山の人にとっての「ほんまもん」とは、篤信の念仏者のことなんですね。往生を願う「後生願い」と言ったりもします。もっと一般的な言葉で言うと「妙好人」でしょう。それと同じ言葉で民藝も表現するわけです。
では、どういう人を「ほんまもん」と呼んでいるかと言うと、人の優劣やお金の多寡、もっと言えば幸せか不幸せについて全く頓着していない人です。それでいて、法悦というものがすごくその人の上によく表れていてる。「ほんまもん」という感覚を人に見るように、物にも見る。私はそれが民藝運動なのだと受けとめてきましたし、そういう世界に憧れを抱いてきました。
つまり、他力とは何かというと、物を「ほんまもん」にしている力なんです。こういう富山県南砺地方の精神風土を、柳先生は「土徳」と表現され、私はこの言葉をいつの間にか大切にするようになりました。経済的な世知辛さや、イデオロギーの右左ではなくて、世の中を見る基盤として「ほんまもん」を見る目。それは真贋を見抜くということではなくて、自分自身もそうならなくてはと、心の奥底から願いが湧き出てくるような感覚でしょうか。
松井 美しいものについて、柳は「自然」という言葉を使いました。あらゆる我執、自力を通した先に、自然に出てきたものが美しいと言うのです。なんでもないようなことですが、実はその中に、先ほどおっしゃった「ほんまもん」の執着の無さ、他力、清浄さが表れているように思います。
柳の言う自然や他力というのは、物だけの話でもなくて、人間だけの話でもない。両者が一つになってまとまっているものです。さらに柳は人間について、作り手だけでなく、見る側使う側についても言及していきます。本当に物を観るというのは、自分でその良し悪しを裁いていくような行為ではない。もし個人的な趣味や執着、価値観のなかで物を見ていくならば、どんな物を見たとしても、自分の基準に合格するかどうかだけで判定してしまうことになってしまいます。民藝の眼目は、おそらくここにあると思います。
人間は、どうしても自分にこだわるような自力の生き方しかできないのかもしれない。それでも一度それを脱ぎ捨てて、自由にまっすぐに物を観られるか。それは非常に大事なポイントなんですよね。どんな宗教においても、俗な世界でがんじがらめになっている執着から一旦離れて、そこで初めて自性をまっすぐな目で観ることができる、そんな信仰を大切にしているのだと思います。柳はそのことを、物の世界を通して我々に示してくれているのでしょう。


「美しいもの」の持つ空気にふれる

太田 先日、ブラジルに行ってきたのですが、その時に先住民の村を訪れました。そこで出会った若いシャーマンが「私たちにとって最も神聖な場所です」と、少し大きな小屋に案内してくれたのですが、中を見てみると何も置かれていない土間の空間でした。
お寺で言う「本尊」にあたるものが何もない。私がその空間に驚いていると「何もないから良いんだ」と教えてくれました。「もし何かが置かれれば、霊性が弱まってしまう。だから昔から、何もないのが一番良いといただいてきた」と。
何もないといっても、単に空虚な空間ではなくて、目に見えないなにかが充満した空間なのでしょう。民藝の美しさについて、フォルムや文様について具に研究するという方法もあると思いますが、むしろ大切なのは、物の持つ空気にふれて楽しむということなのだと思います。
松井 柳は、頭で考える「美」というような抽象的な概念は役に立たたなくて、大事なのは具体的な「美しいもの」自体だと言います。「この馬の目皿が美しい」のであって、「馬の目皿の美」といった抽象的な概念があるのではないと。一方、西洋の美学の場合だと、まず一般抽象的な概念として「美」というものが存在していて、その表象として「美しいもの」があるとされます。これらはまったく逆のことを言っていますよね。
柳は、若い頃に教わった植物の美しさを回想してこんなことを言っています。そこに美しい花があるとする。しかし、花弁、雄しべ、雌しべ、そんなふうに細かく分割してしまうと、元の活きた花に戻すことが出来ない。分割すると活きた花の命は失われる。その花の美しさというのは分割された部分ではなく、活きた花の全体にあるのだと。
この話は、西洋的な「美」の概念の表れではなく、個別具体的な物こそが美しいのであると伝えているのでしょう。我々が持っている言語とは、いつも分析的な論理操作を想定するのですが、物の全体をまっすぐに観る「直観」をもって美しさを見出すということが民藝における一番の根底なのだと思います。


小鹿田焼の水差し

物を美しくしてきた歴史に敬意を持って参加する

太田 民藝と深い関わりを持ち、東西の伝統の融合を目指したイギリスの陶芸家バーナード・リーチが面白いことを言っています。「西洋と東洋のいいところを取り換えっこすればいい」。取り換えっこというのは、片方が無くなるという意味ではなくて、お互いのいいところを取り入れて、新しい進化を遂げるのだと語っています。さらにそれは、東西だけの問題ではなくなって、過去と現在の問題になると。
民藝が過去の伝統ばかり見る骨董主義になってしまえば、力のある運動にはなりえません。しかし、過去を否定して何か新しいものを考えなくてはならないかといえば、そうではない。
濱田庄司さんは「根に聞いて芽を出す」とおっしゃった。根っこがあるから、自由に芽を出せるのだし、芽を出すから、幹や葉っぱを出せる。根っこの基盤を否定して新しいものを目指せば、糸の切れた凧のような民藝運動になってしまう。リーチの語る東西のように、過去と現在のいいところを取り換えっこすることが大切なのですね。
ここに小鹿田焼の水差し(写真右)を持ってきました。無理のない自然の姿をしていますよ。元々日本の民窯では、こういう取手がつくれなかったのですが、リーチが取手の付け方を教えているんです。
松井 そうなのですね。現在の沖縄の焼き物も、この形を採用しています。元々の沖縄の焼き物の作り方だと、取手が取れてしまいやすかった。しかも、この形の方が幅も広くしっかりしていますから、コーヒーカップにしても持ちやすい。これはリーチの言った、東洋と西洋のいいところを取り替えたような姿なのかもしれませんね。
「新しいものを」と拘っても、やっぱり皿は皿だし、丼は丼です。江戸時代につくった皿と、現代の日本人がつくる皿がまったく違う形になるはずはない。大事なことは、作り手も見る側も美しい物にふれて感動する体験です。それは目利きの目が必要ということではなくて、自分というものを超えた「自然」の美しさに感動することだと思います。
太田 今において、過去と未来をどのように出会わせるか、自分の中でどう出会うか。民藝というものは、変に力まなくても未来というものを持っているはずです。過去を見れば、物を美しくしてきた歴史がそこにある。その歴史に私たちが敬意を持って参加していくということが大事なのでしょう。