『同朋』10月号対談を特別公開します
閉じた心が開かれ、自分に帰っていく―小さな本屋の可能性。
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辻山良雄(本屋「Title」店主)× 岸上 仁(真宗大谷派僧侶)
全国の書店数が減少し続ける中、個性的な小さな本屋さんの存在が注目されています。
そんな本屋さんを2016年1月に東京・荻窪に開店した「Title」店主の辻山さんと、
今年4月に私設図書館「念々堂」を開設した僧侶で医師の岸上さんの対談です。
本との出会いによって気づかされたもの
岸上 僕はそんなに読書家ではないのですが、本屋さんって買いたい本がなくても何気なく立ち寄れる場所なので時々行きます。特に小さな本屋さんは店主の個性が表れていて、そこで思わぬ発見があったりします。4月に「念々堂」という私設図書館を開いたこともあって、本つながりということで辻山さんにお話をお聞きできるのを楽しみにしてきました。
辻山 「念々堂」とは、どんな図書館なのですか。
岸上 祖父(先代住職)の旧家を改装して造った、住宅街にある小さな図書館です。祖父は、受念寺(大阪市)に併設されている「老人ホーム受念館」を設立した人で、図書館はお寺や老人ホームの隣にあります。
図書館には、僕の蔵書をもとに、読んでもらいたい本を置いています。仏教の本を中心に、小説、マンガ、絵本、医学書など。寄贈していただいた本もありますが、その方が読んでもらいたいと思う本で、僕自身も読んでみたいと思った本を置くようにしています。
辻山 どうして図書館なのでしょう?
岸上 僕は寺に生まれたのですが、長らく脳神経内科医として神経難病の診療に携わってきました。特に重篤な病気、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんを診療し対話する中で、医学では解けない課題をたくさんいただいたわけです。そして僕自身プライベートでも行き詰まっていた時期に、仏教を学べる大谷大学(京都市)に編入学しました。そこで仏教の先生に出会って、仏教書はもちろん、仏教以外の本も勧められて読むうちに、いかに自分が狭い価値観の中にいたのか思い知らされたんですね。患者さんから投げかけられた言葉や問いにも、医学だけで見ていた時とは全く違う意味をもって出会い直すことが多々ありました。自分自身の苦しみや、言葉にならなかった思いを引き出してくれた本、自分が見失っているものに気づかせてくれた本との出会いが、私設図書館を開設するきっかけになっています。
本が並んでいる場所で世界を見出す経験
辻山 図書館にはどういう方がいらっしゃるんですか。
岸上 近所の方や、隣の老人ホームの入居者さんのほか、学生さんが自習しに来られたり、出かけたついでにちょっと寄って本を借りて行かれる方など、いろいろです。
辻山 皆さん、本があるから来ているのか、こういう場所があるから集まって来られるのか、どうなんでしょうね。
岸上 両方あるような感じがします。でも、やっぱり場所があるからなんでしょうかね。
辻山 そうなんですよね。本屋にいても思いますけど、こういう場所があって、いろんな本が並んでいることによって、そこに世界を見出すことができる気がするんです。
岸上 そういえば不思議と本を買いたくなる本屋があって、それって何なのかなと思っているのですけれど…。
辻山 同じ本でも置かれている場所によって見え方が変わってくるんですよね。厳密に言うと、自分のその時の気持ちとかによっても変わってくるんでしょうけど、周りの本との関係性に気を配りながら、丁寧にあるべきところに置かれていると、その棚が光って見えることがあります。
岸上 お店側のメッセージみたいなものと、客の心が通い合うんですかね。
辻山 だと思いますね。よく本屋さんの間では「触ると売れる」と言われるんですけど、「Title」くらいの小さな店でも、目につかない場所がどうしても出てきます。最近ここを全然触っていないなとか。そういうところを気にかけて整えたりすると、なぜか売れていくという。
岸上 人との関わりと似ているような。
辻山 似ていますよね。別にポップやメッセージが無くても、しかるべき場所に置いてあげれば、ちゃんと作られた本なら、その本自体が語っていて、魅力が伝わるのだと思います。
岸上 なるほど。ところで辻山さんが店に並べる本を選ぶ基準は何ですか?
辻山 はっきりした基準はないですが、本って人それぞれ読むものは違っていても、こういうふうになりたいとか、こういうことが知りたいと思って手に取るものだと思う。だから、一時的な答えではなく、読んで何かが返ってくる本、そしてずっと読み継がれるような、普遍的なものにふれた本を置きたいという気持ちはありますね。
本のことを語っているようで自分自身を語っている
岸上 辻山さんはご著書で「切実な本が売れる」とおっしゃっていますが、図書館でもそれを感じます。ふと切実な悩みをお話しされた時、それを解決する本でなくても、「この本のお話に通じるかもしれません」と紹介すると、借りていかれることがあります。
辻山 本ってわりと人に近いメディアというか。人と人の間にあると、話しやすいことがありますよね。たくさんある本の中でそれを手に取ったというのは、何か意味があったり、自分に近いということがあるわけで。本のことを語っているようで、自分自身を語っていることがある。
本当に今、なかなか生きにくい世のなかになっていますよね。経済も人間関係も。隣にいても隣人じゃないというか。そういう中で、なぜ本を手に取るのか。昔は娯楽や気晴らしで読む、教養で知識を付ける、そういう読まれ方が多かった。でも最近そうした読まれ方は少なくて、自分が抱えている困難を突破したいというか、生活の中から出てくる切実な欲求を本に託しているし、書き手も大上段に構えるのではなく、読者の目線にまで降りてきて丁寧に書いていることが多い。そして読み手と書き手が同じ熱量で出会っていく、そういう本の出会い方が増えた気がしますね。その人の実存を賭けたものが人を動かしていく。差別や人権について考えざるを得ない世のなかになってきているので、そういう本を手にする方も増えています。
今はネットで本が購入できる便利な時代ですが、ネットだとあまり記憶に残らないように思うんですね。本屋だとここで買ったとか、あの時、実は落ち込んでいたとか、後からその時の記憶がよみがえることがあります。本を手に取り、開いて、体を使って読んでいるからなんですよね。本の世界観にふれて、じんわりその人を作っていく。本屋ってそういう場所でもあると思っているんです。
どんな人もその人として生きられるように
岸上 辻山さんはご著書の中で、浪人生の時に紀伊國屋書店梅田店(現・梅田本店)に通うようになり、「自分の知らないことがこんなにある」という気持ちを激しくもったということを書いておられます。そのことが今の仕事につながっているのでしょうか。
辻山 自分の知らないことがこんなにあるんだ、と単純に驚いたんです。本当に面白いと思ったし、自分が何か他の人にできることがあるとしたら、本に囲まれた空間の中でやっていくのが一番だろうと思えて。それで大学を卒業後、書店に就職しました。
けれど大きな書店だと、どうしても店員と客という関係になってしまう。もちろんそれなりに充実はしていたんですけど、時間はどんどん流れていきますし、これでいいのかなとふと思ったんですね。それなら、もっとお互いの顔が見えて、来る人がその人自身に戻れるような場所をひとつ、小さくてもこの世のなかに作りたいと思ったんです。自分自身、そういう場所を求めていたのでしょう。それで会社を辞めて独立し、本屋「Title」を開きました。
僕が本屋をしている根底には、それぞれ手を伸ばす本は違っても、みんながその人として生きられればいいという思いがあるんですよね。もちろん経営が成り立つように努力はしますけど、それとは別に、本屋をしながら自分らしく生きていければいいというか。周りにいる人も、どんな人もその人として生きられるようになっていけばいい。それが自分にとっては本のある場所でした。
岸上 僕も近い経験をしたことがあります。自分は医者なんだということがすべてになってしまうと、何か薬を出すだけになってしまったり、お坊さんだったら、お経を読むだけになってしまいます。
辻山 その人の病気を治す先に、お経を読む先に、何があるのかということですね。
岸上 それがないと行き詰まるように思います。ただ機械的に薬を出すというのでは人間としての立場を失っているというか。仏教の学びもそうです。僕は患者さんの苦悩を前にした時、何かいい言葉を語ろうと、ある意味仏教を利用していたところがありました。そのことを問われたのが「君はどうなんだ」という仏教の先生の言葉でした。患者さんの問題は、君自身の問題でもある、と。自分の問題になっていなければ、仏教を学んだとしても苦悩を確かめることにならない。だから「念々堂」もそういう問題を一緒に考えていく、自分の問題を確かめる場になればと思います。誰かがその人であることを失っているならば、それを回復していけるような場ですね。
辻山 そのためには岸上さん自身が自分でいなきゃいけない。「共に悩む」じゃないですけど、解決しなくても、それがひとつの祈りになるというか。
普段、私たちは会社でも、電車の中でも、仮面を被るじゃないですけども、ちょっとバリアーを張って生きているようなところがあると思うんです。だから、この店にいる時は、なるべくその人自身を解き放ってあげたい。自分の部屋ではないのだけれども、多様な世界にふれ、閉じていた心が開かれ、自分に帰っていく。そういった動きが、こういう小さい場所だと自然に生まれるのかもしれないと思っています。
本を介したコミュニケーションの場
岸上 そういう本のある空間でイベントなどを開くことで、また何か共有できることがあるように感じています。例えば読書会では、本を読んで座談する中で、一人で読んでいた時には気づかなかった言葉に深く出会うということがあります。本と出会うと言っても、それは本の向こう側で人と出会うことなのかな、と思っています。
「Title」ではさまざまイベントを開かれていて、本を介したコミュニケーションの場が生まれているそうですね。
辻山 新刊が出た時に、著者をお呼びしてトークイベントを開くのですが、似たような興味をもたれた方が集まって来られます。そうすると、終わったその場で、さっきまで知らなかった人と話されている光景を結構目にします。何となく気持ちが通じる人と出会える場が今求められているんでしょうね。
あと、2階がギャラリーになっているので、原画や写真を見る機会を作ったり、1階の奥のカフェでゆっくりお茶を飲んでもらったり、本を買うだけでなく、いろんな体験ができるようにしています。
私自身、小さな本屋を始めて思うことは、名前も知らないけど、この人に本を手渡したという実感があることです。続ければ続けるだけ、いろんな人や本の記憶が染み込んでいきますし、同じ人間がずっとここにいて見続けていることで、その場、その時間に、深みを生み出していくことはできるかもしれない。
岸上 続けていく中で自然にはたらいてくるものがあると。
辻山 あると信じたいですね。はたらくと言っても、同じことをずっとやっている中で生まれてくるものがあると思うんですよね。けれど何かをはたらかせようとして、無理やりイベントを引っ張ってきても、それでは底がだんだん浅くなっていく。何かその下に泉みたいな根源は必要なので、基本はそこを充実させて、そのうちに場が勝手にはたらいていくことが理想なのかな、とは思いますけどね。
岸上 底にある泉、面白いですね。それぞれ立場や境遇は違っても、人間にとって普遍的な問題を共有できるというか、ここでは話していいんだというふうに思える、そういう場は一朝一夕にできるわけではないし、だんだん成熟していくということがあるのかなと思いました。慌ただしい日常の中でも、自分を確かめるような言葉と出会い、自分に帰れる場所としてはたらく、本屋という場には無限の可能性を感じます。
辻山良雄 つじやま よしお
1972年兵庫県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、大手書店チェーン「リブロ」に入社。広島店、名古屋店などの店長を歴任後、池袋本店総括マネージャー。2015年7月に退社し、16年1月に東京・荻窪に新刊書店「Title」を開業。著書に『本屋、はじめました 増補版』(2020年、ちくま文庫)、『小さな声、光る棚』(2021年、幻冬舎)、『しぶとい十人の本屋』(2024年、朝日出版社)など。ウエブサイトで1日1冊「毎日のほん」を掲載。
岸上 仁 きしがみ ひとし
1976年大阪市生まれ。大阪大学医学部付属病院などで脳神経内科医として勤務したのち、大谷大学仏教学科に編入、同大学院でインド仏教、唯識思想を研究(2020年修了)。医師として診療に従事しつつ、真宗大谷派大阪教区受念寺副住職を務めるほか、大谷大学、京都光華女子大学の非常勤講師。金沢の仏教の学び舎「崇信学舎」の同人で、同舎発行の仏教誌『崇信』に「病と生きる」を連載。ブログに「お医者さんはお坊さん」。