『同朋』1月号「Q&A お葬式の?に答えます」特別公開

掲載日:2024/02/01 16:24 カテゴリー:メイン

回答者:門脇 健(大谷大学名誉教授)



かどわき けん
1954年福井県生まれ。京都大学文学部・同大学院文学研究科で宗教哲学を学ぶ。大谷大学文学部教授を経て、現在は同大学名誉教授。真宗大谷派福井教区善久寺住職。著書に『哲学入門 死ぬのは僕らだ』(角川SSC新書)、編著に『揺れ動く死と生』(晃洋書房)などがある。



【Q1】
「直葬」や「一日葬」など
お葬式を簡素化してすませる風潮が広まり、中には「お葬式なんていらない」という意見もあります。そもそも、お葬式をする必要はあるのでしょうか?



【A】
「葬る」ことは、人間が人間である条件です。


お葬式の在り方を考えるために、「お葬式」を「葬」の部分と「式」の部分に分けて考えてみましょう。つまり、「葬送」と「儀式」に分けて考えるのです。
葬送とは、遺体を生活の場から隔離し、畏敬をもって私たちの視野から消し去る行為です。遺体を放置しておくと腐敗し悪臭を放ち、遺族の生活は成り立ちません。そうかといって、ゴミとして“廃棄”するわけにもいきません。人間は、共に生活した家族や仲間を、時にはペットなどの動物も、亡くなったときには、何らかの形で葬らざるにはいられない生き物です。つまり「葬る」ことは、人間が人間であるための条件と考えられます。いわば「葬る動物」が人間なのです。もちろん、人類史上には、葬送など必要ないと考えた人々もいたでしょうが、そのような人たちは歴史を生き延びることはできませんでした。家族や仲間が死んでもゴミとして処理してしまうような人たちのグループが、お互いを敬うことができずに滅んでしまうのは当然の成り行きです。
葬送には、「火葬」「土葬」「水葬」「風葬」などがありますが、いずれも、自然の力を借りて積極的に遺体を崩壊へと導く行為です。こうすることで、今は見えなくなった死者を「想い出」という新しい世界に蘇らせることが可能となります。もちろん、ただちに美しく懐かしい想い出となるわけではなく、故人について語り合い、死者に詫びたり、あるいは恨み言を聞いてもらったりしながら「想い出」が形作られるのです。このような想い出を形成してゆく機会を与えるのが、「儀式」の役割です。

==========

【Q2】
「家族葬」など参列者を絞った小規模なお葬式が増えていますが、お葬式の規模はどうしたらよいでしょう。



【A】
家族以外の親しかった方にもお別れの機会を提供すべき。


現在、「家族葬」と呼ばれているのは、家族と親戚だけで勤める小規模なお葬式のことですね。この形式は、以前からぼちぼち見られましたが、新型コロナ感染症の広がりによって一気に標準型になってきたようです。しかし、この形式が「お葬式」の本来あるべき姿かどうかを判断するのは、難しいところです。
というのは、お葬式の「儀式」の役割の大きな部分を占めるのが「告別」、つまり「故人とのお別れ」という機能だからです。Q1の答えで述べたように、告別の儀式で一区切りがついて、初めて故人は想い出になってゆきます。ですから、家族以外で故人と関係のあった方々も、やはりお別れしたいと思っています。したがって有名人の場合、お葬式は家族葬でつとめても、後で「お別れの会」を開催したりします。有名人でなくても、仕事の関係などから友人・知人が多い場合、家族葬でお葬式をすませてやれやれと安心していると、次から次へと弔問客が家にお参りに来られて、その応対に疲れ切ってしまったとお聞きすることがあります。ですから、お葬式の規模は、家族以外の親しかった方々にもお別れの機会を提供するという点も考慮して決めるべきでしょう。
昭和の高度経済成長期までは、江戸時代から続いてきたご近所共同体や、会社の家族的共同体でお葬式が営まれました。その頃のお葬式は、さまざまな面倒なことを、葬儀屋さんではなく年長者が差配することで成り立っていました。また、多くの人々が関わるその非日常的な儀式は、子どもたちに強烈な印象を残し、「人は死ぬ」ということを教育する場にもなっていました。昭和の子どもは“葬式饅頭”を頬ばりながら、「人は死ぬ」という事実を、頭ではよく理解できないながらもお腹に入れていたのです。しかし、そうした共同体が消滅しつつある現在では、家族葬のような小規模のお葬式が標準型になってゆくのでしょう。しかしそうなっても、親族以外の方々にも告別の場を提供することや、お葬式のお供えのお菓子を配るなどして子どもたちに「人の死」を知ってもらうことも大切なことかと思います。


Q3~Q10は月刊『同朋』2024年1月号に掲載されています。ご購入はこちら