『同朋』6月号対談を特別公開します!

掲載日:2024/07/03 09:05 カテゴリー:メイン

デザインは無心の〈手遊び〉から生まれてくる。



行間の調整例

デザインというカタカナ、まず私たちの手もとから考えてみませんか?
星野源さんなど数々の音楽家とのお仕事も手がけてきた大原さんと、
音楽や絵本を通した居場所づくりの活動を続ける廣瀬さん、お二人の語らいです。



デザインの〈手前〉

廣瀬 大原さんの『HAND BOOK』(グラフィック社、2023年)に収められているエッセイを何度も拝読しました。タイトルにもHANDとあるように、この本では手という言葉がキーワードになっています。デザインという言葉を聞くと何らかの成果物を考えがちですが、その言葉の〈手前〉で〈手探り〉することの大事さを書かれていますね。
大原 今回つくった本では、これまで20年ほどのあいだにしてきたこと、考えてきたことをまとめたのですけれど、直線的に過去を振り返るという感じではなく、曲線的というか、あっちこっち行ったり来たり、そういう手探りの活動をぎゅっと生っぽく出せないかな、と思って。自分はそんなにまっすぐ、スムーズに来たわけでもないので。
僕は文章には苦手意識があって、実は絵を描くよりも全然時間がかかるんです。普段は文字をあつかうデザインをしているのに、いざ文章をつむぐとなると、もがきが強いんですね。でもたまに書く機会を頂戴するなかで、できればデザインという言葉をそのまま使わずに翻訳できないかなと。いろんな方との出会いのなかで手前とか手探りという言葉を発見して、少し気持ちが軽くなったんですよ。
確かにデザインと聞くと、合理的に整理する、きれいに洗練させるという方向に考えがちというか、目標を設定して課題を解決するといったことが語られることが多いように思いますね。大学一年生のまだほやほやの頃、「あなたにとってデザインとは何ですか」みたいな課題があったのですけれど、概念としても身体に入ってないので、頭を抱えてしまって(笑)。卒業前にも同様の課題があって、そのときはそれっぽいことは書けるんですが、「いや待てよ」と。意匠といった日本語もあるけれど、自分なりに翻訳する言葉をもっておいていいんじゃないかと思いました。
それでデザインという言葉じたいを考えようというのが、ここ十年ぐらいになるのかな。背伸びせず等身大で、いちおうおなかに落ち始めている言葉としては、全力でやる〈手遊び〉と〈手探り〉ですね。
廣瀬 約20年お仕事をされてきても、まだ手探りの途中といわれるのが何だか優しいなと。
大原 ありがとうございます。「デザインとは何か」というど真ん中を探っていこうとすると、逆に遠のくものがあるように思うんです。だから「その手前って何だっけ?」とか、そうやって引き戻していくと「もっと物事に取り組めそうだぞ」と。
そうやって手前で考えてみると、子どもの頃、無心になって砂場で穴を掘った感覚とか、そういう手遊びって、大人になって少し物事がわかったふうになるとやらなくなりますよね。でも頭のなかで思い返すだけでもいいので、そういう作業を一回でも挟むことで、いきなりゴールに向かうよりも物事に近づきやすくなるんです。
廣瀬 なるほど。確かに大人になると砂遊びなんて滅多にしませんね。大人になると、子どもの頃とちがって背丈も伸びて視界も上になるので、手が少し遠くなる気がします。子どもの頃とちがっていろんなものを手にとることが容易になる反面、かえって意識して手を伸ばさないと届かない領域もあります。無心なひたむきさなんてまさにそうです。
大原 おっしゃるとおりですね。ひょっとしたら、大人の視界に入るものって舗装された道路とか、人工性の高いものが多くなるのかもしれません。そうなると工夫して何かをしようという手遊びの領域は自然と狭まってきます。


ガラスのモビール〈声〉

多彩な線の妙味

廣瀬 先ほど直線と曲線というお話がありましたが、大原さんの作品には、線の妙味みたいなものを感じるんです。そういう感覚が生まれる背景って何なのかなって。
大原 人それぞれに癖ってありますよね。字の癖もそうで、どんなに練習しても癖は入り込んできます。「その正体って何だろう」と思った時期がありまして。
もちろん体格の影響はあります。あと道具の癖ですね。もし鉛筆が3メートルの長さだったら、おそらく姿勢も文字も変化します。つまり、手の大きさなどの体格と道具は呼応していて、それは歴史のなかで出来あがってきた相関関係なんです。手前ということで言えば、「じゃあ鉛筆という道具の手前って何だっけ?」と考えることもできるわけで、そういうワークショップを続けています。
公園とか海岸に出かけて、文房具屋さんで売っていない道具、たとえば石とか貝殻にインクを付けたり、スタンプみたいにして文字を書いてみよう、と。すると、普段書くときの癖に道具の癖が乗っかってくるのがとてもよくわかるんですよ。石なら硬さ、葉っぱならもろさ、そういう自分の癖を凌駕していく個性を道具のほうがもっていたりするんです。
そうすると、「何でこれがうまくできないんだろう、他の人はできるのにうらやましいな」といった自分の苦手意識って案外、癖なんだとわかってくる。いきなりデザインって何だろう、文字って何だろうっていうより、まず道具って何だろうと考えていくと、自分の癖とか、いつの間にか「自分って何だろう」という壮大な問いをめぐるワークショップになっていくんですね。
そうして掘り下げていくと、一人で作業していても一人じゃないことに気づくこともあります。一人のときでも道具とは組んでいるし、自然などの環境だったり、あるいは今だったら廣瀬さんと話すことだったり、先人の知恵と対話することもあります。これらはいわば〈合いの手〉で、どんな合いの手が打たれるのかというのも、自分の癖を超えてくる大切なことです。そんなふうに、いまだに「自分って何だろう」って掘り下げるなかで線とか文字について考え続けています。
たとえば、表現として考えると、線とか文字というのは、音とか声の対極という気がします。歴史を辿ると、自然物に引っ掻き傷を付けることで記してきた文字の権威的な側面と、声や音楽が空気を媒介にして身体から放たれてきた歴史は大きくちがいます。だから、たとえばアルバムのジャケットだったり、音楽に関するデザインは、表現として対極にあるものをなじませていく作業というか、アンビバレントな難しさ、面白さがあります。
廣瀬 それに関連して思ったのは、大原さんのモビール作品(上部画像参照)です。この場合は文字をもう一度空中に返していくイメージでしょうか?
大原 そうですね。強い表現としての歴史をもつ文字を、声が空中に放たれてきた風景に戻していくというか。モビールってゆれ動くので、あるときはかちっと読めるし、あるときはほどけて読めない。声と文字の中間を表現できないかなと。
廣瀬 ご自身で雪山を歩いて線を描いてみる「もじばけ」という作品もあります。こういう作品を見ていると、「ナチュラルな雰囲気」という言葉でホッコリして終わらない、絶妙なバランスを感じます。
大原 歩かないと出てこない、簡単にマネできない線ってあるのかなと。そういう線を体感して、身体に線を入れていくというか。線を引くということを一回忘れてみたうえで、環境と会話しながら線を描いていく感じです。
概念としての上手/下手ではなく、無心で共感できるものが少しでもあると、頭からというより、気持ちとか身体のほうから入っていける。それは自分がテクノなどのダンスミュージックに衝撃を受けて、今の仕事につながっていったからかもしれません。


もじばけ:Throw Motion展

〈手渡し〉の原点

廣瀬 そもそも大原さんがデザインを始められたきっかけってどういうところにあったんですか?
大原 入り口は完全に音楽です。中高生の頃、同級生たちとCDをテープに録音して、新聞みたいに感想を書き合って回し聴きしていたんです。そのうちに友達の一人が、自分で音楽をつぎはぎして曲を作るようになって、彼が作ったコラージュ音楽の感想を書くのが流行り始めて。
それは教室の片隅で僕らが遊んでいた、ごく小さな文化です。でも「何かすごいことが起こり始めたぞ」という感じで。「来週また新曲が聴けるのかな」って、もう放課後が楽しみでしょうがなかった。さらにその彼が今度はレコード屋さんにそのテープをフリーペーパーみたいなかたちで置きたいということになって。すると、「毎週変な高校生がテープをもってくる」というので、少しずつ話題になり、音楽雑誌の片隅にレビューが載ったりしたんですね。
僕らの遊びが口コミで、ダイレクトに社会に出ていくという、そういう経験でした。手作りのDIYでもどこかで誰かが面白がってくれるというサイクルを体感できたのが結構大きくて。「この渦のなかにいるのは面白いぞ」という感覚がデザインという言葉より先にあったんです。
廣瀬 そうだったんですね。大原さんの本で手というキーワードを見つけて、私が思ったのは〈手渡し〉って言葉だったんです。誰かと会って一緒に何かを作って手渡していく、そういう体験が原点にある、と。
大原 完全にそうです。たとえば、漁師さんが魚を獲ったら、それを市場の人が誰につなぐか、鮮度やレートはどうかといったことを瞬時に見抜くわけですね。魚市場ではそういうことが日々あると思うんです。
デザインにも似たところがあって、いいデザインというのは色彩だったり形だったり、ある程度は学校で習得できますが、それは誰と誰のあいだをつなぐのか、どんなサイクルに乗るのかということは意外と見落とされたりもするんですけれど、忘れないようにしたいなと。
廣瀬 すごくわかります。仏教のことでいえば、もともと宗教的エリートや貴族たちのあいだをつないでいた仏教というものがあって、親鸞という人はそれを民衆の手に渡したように私は思っているんです。しかも、私たち一人ひとりが考えながら誰かとつながることで完成する、そんな余白が残されているような気がしていて。
大原 廣瀬さんにとって、仏教の入り口、手前ってどんなものでしたか?
廣瀬 私は昔からはっきりとした答えを出すことがすごく苦手で。たとえばAとBという二つの道があって、どっちにも良いところがあると迷ってしまうんです。でも、そのときAにもBにも偏らずに「本当にこれでいいのかな? そもそも私って何だっけ?」と問い続けながら歩む道もあると思っていて、それが入り口になったと思います。
大原 僕の場合、依頼のお仕事がほとんどなので、それこそ問いをちゃんともち続けていないと、結構凝り固まっていくんですよ。それがある種の作風になって、「ああいう感じで」と求められることもあるんですけれど、肩の力を抜きつつ手を抜かないというか、筋トレのように強く鍛え上げるというより、むしろ眠っているものを呼び起こすような柔軟さって、物事を進めるときに大事で。だから、問いというのはわかる気がしますね。


〈探る線〉の魅力

廣瀬 話を少し戻すと、先のお話にあった音楽関連のデザインのときは完成した楽曲をもとに作品づくりに入るんですか?
大原 楽曲完成後に関わるほうが多いですが、ラッキーなときにはレコーディングを見学できたりします。アーティストが疲れたとき、どのタイミングで休憩したり、どんな合いの手でバンドが支え合っているのか。そういう製作過程の空気感からアーティストの姿勢とか、楽曲の質感を拾うのは重要で。
廣瀬 星野源さんが在籍していたSAKEROCKというバンドのデザインを長く手がけておられましたね。作品を見ていると、その時々のメンバーの雰囲気などがアートワークを通して出ているように感じます。
大原 楽曲を聴きながら作業していて、僕は「線を生け捕りにする」という言葉を使ったりするんですけれども、本当に手探りです。たとえば、デッサンするときって「この線かな?」と描きながらモノの輪郭を探っていきますよね。ああいう感じで「これだ」という線を捉えていくんです。
僕は〈探る線〉という領域が好きで、洗練され完成された不動の線というのも、もちろん魅力はあるんですけれども、何かになろうとしている力というんですかね。これから生まれようとしていたり、もがいている線の魅力もやっぱりあって。それは未熟なものでもあるんですけれども、すべて消し去ってしまうのはもったいない。そこにある強さとかエネルギーを秘めた感じも結構重要なので、手数を重ねないと見えてこないものってあるんだろうなと思います。完成度の高い線と、探っている途中の線って両方よさがあるので、その中から選んだりすることもあります。
SAKEROCKとの仕事で、よく思い出すのはラストアルバムのジャケットデザインです。これは技術的なことをいえばマジックの走り書きで、写真もシンプルだし、文字も最小限です。けれども、バンドの力強い存在感を文字であらわせたかなと。ラストアルバムということで、いろいろな感情も乗って印象深いのかもしれませんけれども。
このときもやっぱり、ずっと曲を聴きながら、もう何なら泣きながら書いていました。なので、走り書き一発に見えるんですけれども、これまでの時間を確かめるようにたくさん手数を重ねて完成させました。
廣瀬 SAKEROCKの解散には前向きな雰囲気もあって、星野源さんは当時「解散するからこそ初期の笑顔に戻れるのでは?」といったことも語っていました。このジャケのタイポグラフィを見て「あ、最後なんだ」というさみしさと同時にそういうすがすがしい勢いも感じたのを思い出します。
今日のお話では、やっぱり物事の手前にある自分自身を見失いたくないなと。もちろん結果は見据えつつ、そもそもの手前についてはいつも立ち戻りたいです。
大原 何かすごく聞き出していただいて。手渡しという言葉から、特に中高生の頃のことなど「ああ、そうだったな」と思い起こせたのはありがたかったです。手渡しというのはもっと考えてみたい言葉ですね。



大原大次郎 おおはら だいじろう
1978年神奈川県生まれ。2003年武蔵野美術大学基礎デザイン学科卒業。タイポグラフィを基軸とし、グラフィックデザイン、ブックデザイン、イラストレーション、映像制作などに従事するほか、展覧会やワークショップを通して言葉や文字の新たな知覚を探るプロジェクトを多数展開。受賞に、JAGDA新人賞、東京TDC賞。著書に『HAND BOOK:大原大次郎Works&Process』、編著に『作字百景』(共にグラフィック社)など。


廣瀬カナエ ひろせ かなえ
1983年福岡県生まれ。TOI Inc.代表取締役。コドモディスコ代表。イベント企画制作、空間演出、舞台装飾と並行し、大型書店の絵本コンシェルジュとしても従事。大型ホールの舞台演出、音楽フェスのデコレーション、百貨店のインスタレーション、キッズエリアをディレクションするなど、さまざまな空間を大人と子どもの遊び場へと変容させることを得意とし、すべての活動の軸に「居場所づくり」がある。真宗大谷派九州教区(福岡県)光桂寺衆徒。



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